2020年12月31日木曜日

いっぱしの人

自分の人間性についての自己分析はあまりあてにならないものかも知れないけど、僕は自分を子供っぽい人間だと思っている。これは20歳頃から変わらず思っている事で、40歳過ぎるまでずっとコンプレックスだった。そしていつか自分もいっぱしの大人になれるのだと根拠のない期待をしていた。でも40代半ば以降もう無理だと分かって、ならば一生半人前でいいやと思って10年くらい経つ。子供っぽいと感じる理由はあげれば切りがないけど、それを具体的に言葉にするのは結構難しい。これ以上続けると、なんとなく風流な物云いになりそうなのでこの話題はここで終わり。

でも中身がいくら子供っぽくても身体は老いる。40代半ば辺りから白髪が目立ち始めたので2~3ヶ月に1度くらいの周期で自分で染めるようになった。でも最近はやる度にもう止めようと思う。面倒だし、これだけ増えたらもうこのままでよかろうと考えるんだけど、3ヶ月くらいするとまた染めてしまう。別に若く見られたいとかでは全然ない。 ただ白髪頭の自分を見ると老け込んだ気分になるのが嫌。こう云うところも子供っぽいのかも知れない。前回染めてからそろそろ3ヶ月経つ。今度こそ止められるか?

云うまでもなく誰にとっても今年は大変な年になった。元から引き籠りがちな自分の生活でさえ、振り返れば今年の行動範囲の狭さに驚く。 1年間の9割以上の行動範囲が半径1km以内に収まっている。電車に乗った日が1年で15日くらいしかなかったかも知れない。意識的に運動する事があまりない自分にとって外出しないのはそのまま更なる運動不足に直結する。運動不足は老化促進に、。せめてこれ以上バカにならない為に血の巡りが良くなるよう運動しよう。

元から少ないライブの機会は更に減ったけど、お店とお客さんの配慮のおかげで計画したものは全て無事に行えました(延期振替や配信ライブもありましたが)。久しぶりに大阪、岡山、名古屋でも演奏の機会があったし、東京でのライブもそれぞれ楽しい内容だったと思います。絵の展示もお店が営業時間を調整したりアポイント制にしたり、考えてくださったので全ての計画が中止にならずに行えました。初めて展示する機会をもらった場所も多く、どの展示も楽しく準備する事が出来ました。足を運んで下った皆さん、お世話になった皆さん、どうもありがとうございました。その他、面白い録音の機会をもらったり絵の依頼をもらったり、家に引き籠りながらも、いろいろやるべき事、やりたい事があって忙しく過ごせて感謝しています。もちろん困難な状況が早く終息するように願うけど、身近な物事や人々の有り難みが身に沁みる1年でもありました。

来年こそは良い年になりますように。がんばろう。



 

2020年12月23日水曜日

目は口ほどにものを云う

誰かと知り合って話をすれば、好きな物事の話題で共感出来るか否かって流れはよくあるよね?音楽、食べ物、本や映画や俳優その他なんでも、。そんな中で「笑い」「可笑しみ」についての共感ってわりと大きいと思う。そこで響き合えないと「気が合わないな」って考えに直線的に結びついてしまう事ってないかな?音楽や絵画で食い違っても人それぞれって思うのは容易いけど、可笑しさってそこまで寛容になれない気がする。それは可笑しさには自虐や諧謔、他者や社会への意地悪な視点や皮肉を経由している場合が多い所為かも知れない。そしてそれが小説なんかよりもっとダイレクトって云えばいいのかな、。別に分析するほどの事じゃないけど「可笑しさ」って度を越すとなんとなく引いてしまう。パンクロックとかより暴力的なアナーキーさがあるよね。着地点が「笑い」なのでそれが逆に露骨に感じられるのかも?、、たぶんその辺の塩梅が絶妙に感じられる人が自分が好む「面白い人」なのかも知れない。あ、この話はM-1クランプリとは関係ないです、観ていないので。

前置きが長くなってしまったけど、ホントは今日は久しぶりに「絵を描くこと」にまつわる話を書きたかった。人物を描く際の「表情」について。云うまでもなく表情は顔の筋肉の動きで作られる。眉間に皺を寄せたり、目を大きく見開いたり、口をすぼめたり開いたり、、様々な「かたち」の変化を作る。でもその筋肉の動きによる変化を写し取っただけでは「表情」にはならない。笑顔を描いても怒った顔を描いてもなぜかその心情が伴わない。これは不思議だけどそうなんだよね。自分が描く人物画は殆どが静かな無表情なので尚更心情は読み取り難いものだけど、そこに僅かな(微かな)表情を現したいと思って描いている。

自分の経験では「表情」を現す要点は陰影の付け方だと思っている。特にコントラストを強調するとかそう云う大きくて劇的な変化ではなくて、些細なトーンの変化が表情を大きく左右すると思う。 うむむ、これは分かり難い話だと思うけど、絵を描く人だったら共感してもらえると思うんだよね。その陰影の微細な変化が表情に与える影響を楽しみながら描くのが自分にとっての人物画の面白さだなと。

少し話は変わるけど、引き続き「表情」について。マスク生活が長くなって、他人の顔は目鼻辺りまでしか見ない日常に慣れて来た。「目は口ほどにものを云う」と云われるように目は人の感情や思考を現すけれど、やはりそれは顔全体の表情に比べれば表現が小さい。映画などで人の顔全体を観ているとなんて表情豊かなんだろうと思う。鼻や口も目と同じようにとても表現力がある。

まだ収束にはしばらくかかると思うけど、はやく人の顔を全部見られるのが当たり前の生活に戻れますように。



2020年12月15日火曜日

寒い日

寒い日。コロナ感染拡大が日毎に勢いを増して気掛かり。更に気を付けなくてはいけないのは分かるけど「気を付けている状態」に疲れている人がたぶん多いと思う。自分は元から引き籠って絵を描いている日常が多かったので、それほど変化を感じずに過ごした方だけど、それでもこの状況が今後も続いて行くのは厳しい。お客さんの前で演奏する機会や誰かと気軽に会って話す事、ただマスクをせず何も気にせず散歩出来る事、、有難い事だったんだな〜としみじみ感じている。

話は変わって、最近ヤフオクなどのアカウントに入る時いちいち電話で届く確認番号を入力しなくてはならなくなってめんどくさい。Appleからはパスワードを確認しろとかリセットしろとか度々云ってくるのでその度に面倒。でも使えなくなったら困るので云いなり。様々なオンライン支払いは電子マネーが少し得なのでPayPayに登録したものの、ヤフオクやメルカリとの連携がうまく行かず途方に暮れている、等々、。こんな風に様々な場面で面倒やイライラを感じる自分は「年取ったんだな〜」と思う。世の中の動きと自分の感覚が自然に?ズレてるんだから。めんどくさくたって商売の為のシステムだから特別な能力がなければ使いこなせないものじゃないわけで、幼い頃からネット環境デジタル機器が当たり前なら自然に馴染んで使うのだと思う。自分は「取り残される」事にわりと無頓着な質だと思うのでそんなに気にしてないんだけど、出来ればストレスを感じずに快適に過ごしたい。若者の友達は大切だな、いろいろ教えてもらって助かる。あ〜、そうか、僕は子供がないのでそうなんだな。子供がいれば教えてもらえるし、感覚的に「今」がもっと身近に感じられるよね、たぶん。

相変わらずの引き籠り生活で娯楽がアマゾンプライムで海外TVドラマを観ることくらいしかない。一話が映画より短いので気楽に観られていい。僕は子どもの頃家にTVがなかったのであまりTVを観た覚えはないけど、僕らが小中学の頃は学校の話題はもっぱらTV番組なので話だけは伝わって来る。皆と話が合うように自分もTV観たいな〜と思ってるわけ。で、夏休みとかに親戚の家に遊びに行くとそこで束の間TVが観れる。でも日頃観馴れていないから大抵の番組には入り込めない。あまり面白くないな〜って思ってると、なぜか海外のTVドラマは面白く観れるのに気付く。当時放送されていたのは「刑事コロンボ」とかそんなの。

なので最近アマゾンでドラマを観る時もそんなのが観たいわけ。アメリカのザックリ大味な刑事か弁護士のドラマがいい。考えさせられる作品じゃなくて、観終わった後何も残らないようなのが。理想は70年代の名作「刑事コジャック」みたいなの。強面の親玉刑事が主人公で上司を困らせつつ、真面目で人の良い部下をこき使って無茶な捜査を繰り返し、悪人には非道だけど貧乏人や子供には妙に優しいとか、。すると今でもそう云うドラマが作られていて驚く。もちろん昔より映像はクリアだしアクションシーンのスピード感などは今っぽいけど、エピソードの構造が昔と殆ど同じで、凶悪犯罪のエグさを描きながら人情や哀愁を盛り込んでお約束の解決が成される。なんか昭和っぽい、。翌日にはもうどんな話だったか思い出せないくらいに全然心に残らない。で、こう云うドラマって出演陣個々のキャラクターが決め手だと思う。それによってヒットしたりしなかったりじゃないかと。5シーズン以上続いているものは個々のキャラクターが味わい深く、ストーリーは殆ど右から左に流れてしまうけど、気付くと各々のキャラクターには親しみを感じているんだよね。自分は組織の中でお荷物的な存在でパッとしないんだけど、たま〜に頑張って活躍するみたいな設定のキャラクターが好み。

そう云えば今年は春以降電車に乗る機会がめっきり減って喫茶店にも全く行かなくなったので本を読む量が随分減った。本って主に電車の中か喫茶店で読むものだったのだな、自分にとっては。その代わりがTVドラマか?と思うと、これ以上ボケてしまうと世の中とのズレに拍車がかかりそうなので「やめて本読もうかな」って気になる。

今日みたいな寒い日は仕事や用事が済めば誰もが家路を急ぐ。
寒空の下のそんな光景は暖かい。


 

2020年12月7日月曜日

「大丈夫だよ、オレもそうだから」

ネットでみうらじゅんさんの名言集みたいなのを読んであ〜、、と共感する言葉をいくつか見つけた。みうらじゅんさんは僕より少し年上で、自分が20代前半頃に雑誌にヘンテコなコラムを書いているのを読んでその存在を知った。誰もが「オレこんなんで大丈夫かな?」と少し不安になっている様な事柄を上手く掬い取って「大丈夫だよ、オレもそうだから」って感じの物言いが多くの共感を集めたのだと思う。若い頃は思春期の中学生や大学受験で上京したての若者などの心境を、その後も40代や50代、年齢を重ねながら、その物言いは変わらない。そしてその「大丈夫」には自分と同世代的と云うか、アナログっぽい妙な優しさ(ユルさ)があって、今でも雑誌などでコラムを見つけると喜んで読んでいる。最近の若者にはあまり引っ掛からないんだろうな、と思ったりもする。いや、分からないけどなんとなく、。ともかく求められている事に応えて行く仕事プロな面と面白いからやってるだけって感じの趣味っぽさがとても上手くバランスしている人に思えて頼もしい。以下は名言の抜粋。どれも実感として分かるな〜って思う。

「理由がないぶん長続きするんじゃないですかねえ。やっていること自体が目的なので」

「自尊心は一回潰された方がいいんだよね。一回潰されると背負っていたものが借り物で、実は自分には何もないことに気付くから」

「旅というものには、条件があるんです。それは「戻ってくる」ことです。戻ってこなかったら「蒸発」と呼ばれてしまうでしょう。ですから「どうやって戻ろうか」をずっと考えながら旅をすること、それが旅なんですよ?」

話は変わって、初夏頃に年若い知人から誘われた録音作業にしばし没頭した事を書いた。その音源がようやく完成してリリースされたのでお知らせします。田中耕太郎さんと云う知り合いが「新型コロナウィルスの影響によって様々な音楽の現場が閉ざされた東京で、 音楽制作における新しい共同作業の形を模索すべく」立ち上げた不定形オンライン宅録ユニット「人工芝」に参加させてもらいました。人工芝の1stアルバム「100%人工」が12月4日、bandcampでリリースされました。詳細は以下のURLでご確認下さい。アルバムを通してとても面白い作品に仕上がっていると思います。是非聴いてみてください。
http://www.shacique.com/zinnkoushiba/

更にお知らせです。12月9日(水)〜12月23日(水)まで福岡県久留米市のLinen+roomでイラスト展をさせてもらいます。今年最後のイラスト展です。よろしくお願いします。

12/9(水)~12/23(水)
西脇一弘 イラスト展 2020 @Linen+room
OPEN 11:00 / CLOSE 17:00
Linen+room:福岡県久留米市瀬下町165-2 TEL : 0942−38−0536
*詳細は以下のURLでご確認ください。
http://linenroom.jp/about/



2020年11月23日月曜日

音楽の大きさ

先日ポコペンさんがしみじみこんな事を云う。「最近の音楽を聴いていると、あ〜、この歌は自分に向かって歌われてないな、自分はこの音楽の対象外なんだなって思う時があるのよね。音楽って対象年齢あるわよね〜」この気持ちはよく分かるし、どんな音楽も作り手が意図したか否かに関わらず、年齢に限らず、あらゆる環境や状況等、ある特定の対象に向けてのものだと思う。その対象に含まれる層が広いほどその音楽は大きな(普遍的な)音楽と云えるかも知れない。これは善し悪しや優劣の話ではなくて、単純に大きさの話。でもこれは意外性に満ちた話で、とても狭い対象に向けて放たれている様に思える音楽に、まるで接点がなさそうな人の心が動かされる例は無数にあると思う。そんな時やっぱり音楽は自分なんかのケチな考えなんてまるで及ばない程大きなものだな〜と思う。そんな大きなものの「大きさ」について考えるなんて途方もなさ過ぎて馬鹿げているな。

「相手の尊厳に対する貴方の度量が、貴方の尊厳を作るのだ」
名言だと思うけど誰の言葉だったかな?

音楽は誰の尊厳も傷付けないものであってほしいと思う。

話は変わって、サウダーヂな東京でのイラスト展、おかげさまで無事に終了しました。足を運んでくださった皆さん、お世話になった皆さん、どうもありがとうございました。


 

2020年11月13日金曜日

小学生の頃、先生が国語の授業で唐突にこの詩を教えてくれた。子供心に、空を見上げた時の、この行き場のない想いは大人になってやがて老人になっても変わらないんだなと、印象に残った。

「雲」

もうお前は忘れてゐるかもしれないが
あの時頬かむりをして
開墾地の隅で泣きじゃくってゐた子供が
私だよ 雲よ

あのとき茜色だったお前が
見る見る光を失って灰色に沈み
夕べの空にとけてしまったのを
いつまでも見てゐたのは
私だよ 雲よ

お前は忘れたかもしれないが
五十年たってもあのときの涙が
まだ乾かないのだ 雲よ

更科源蔵



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

変わらないどころか、追憶は年齢と共に磨かれて深い輝きを増す。
ささやかななんでもない事が特別な事になって、
特別だと思っていた事は何処かへ消えてしまう。
昨日何の気なしに聴いた笹倉慎介さんのシンプルな歌が素晴らしかった。

「いきさつ」

街はずれのビルを抜けて
一度だけ入ったきりの店や
誰かが手をかけた庭や
確かに二人が暮らしたアパート、、

https://www.youtube.com/watch?v=0vFi9G6fGOM

 

年齢を重ねながら、いろんなものを捨てて、
もう自分は空っぽになってしまうんじゃないか?と心配になった時、
きっと人は一番豊かなものを手にしている。

2020年11月5日木曜日

イラスト展のお知らせ 2020年11月

先日ショーン・コネリーが亡くなった。僕は007は観た事ないし、映画にも全然詳しくないので顔さえよく知らなかったんだけど、数年前になんとなく気紛れで観た「小説家を見つけたら」と云う映画で初めてどんな人なのか知った。夕暮れ時の薄暗い室内に佇む姿が妙にスター然としていて、たぶんサリンジャーを模したような隠遁生活をおくる偏屈な小説家と云う役柄には不似合いなくらい颯爽としていた。へぇ〜、この人がショーン・コネリーなのか、確かに風格あるな〜と思った。サリンジャーが好きなので映画は面白く興味深く観た。そう云えば確か音楽はビル・フリーゼルが担当していたと思う(違っていたらすみません)。それも良かった。たった1本の映画で知っているだけだけどとても印象的な人だった。

僕は映画スターに興味を持った事はないけど、スターと呼ばれる人はやはり多くの人を惹きつける分かり易い魅力を放っている。ヒット曲と同じでとてもキャッチーだ。キャッチーさは追求し過ぎると身も蓋もないものになってしまう。そうならない様に、明るい分かり易さの中に何処か掴みどころのない「隠された品の良さ」みたいなものがあるといいんだと思う。悪い事も太陽の下で悪びれずにやってしまう感じと云ったら変かな?マルチェロ・マストロヤンニにも似た印象がある。どちらもスターの王道。

話は変わって、11月6日(金)〜20日(金)まで代々木上原のサウダーヂな東京と云うお店でイラスト展をさせてもらいます。大きな人物画と風景画、小さな版画風の作品などを展示します。よろしくお願いします。

*もしDMをご希望の方はメールで送付先をお知らせ頂ければ郵送させてもらいます。

11/6(金)~11/20(金) サウダーヂな東京
西脇一弘 イラスト展 2020

サウダーヂな東京
営業時間:月火水20:00~ / 金土日15:00~(期間中限定)
東京都渋谷区上原1-32-5 ロイヤルテラス-202
phone:03-6407-9989























 

 

 

The other side where my destination is your memory.
Please stay here with me forever.

私の行く先は貴方の記憶の彼方。
いつまでも私と共に居てください。

2020年10月28日水曜日

しじまの中で

 畑を耕して種を蒔いて世話をした人は実ったものを手に入れる。なんだか大仰な出だしだけど、結局これに尽きると思うんだよな。

自分は怠け者だし能力不足だからたいしたものは手に入らないけど、ずっと音楽を作って絵を描いてきたって云う「実感」だけは手元に残るんだよね。それに価値を感じる人が一人も居なかったとしても、それだけは誰にも奪えない。うまくやっておいしい思いをしようって作戦ばかり練ってるような人に時々出会うけど、そんなの意味ないと思う。たいした事をしてないなら、たいした事ないものしか手に入らない。搾取しておいしい思いをした人には何も残らないと思うんだよね。この考えは20歳の頃から変わらない。

僕は幸いな事に同じような考え方の人と一緒に長年音楽を作ってきた。だから一緒に演奏する曲がたくさんあるし、作ろうと思えばこれからも作って行ける。世の中で価値があるかどうかしか判断基準を持たない人にはきっと分からないだろうけど、 これは自分が今まで生きてきて一番よかったことだ。高校生の頃、僕は友達と一緒に音楽がやりたかった。やってどうする?とかいつまでやる?とか何も考えてなくて、ただやりたかった。自分が音楽を作ったり絵を描いたりしているのは、それを続けているだけなんだよね。

山口冨士夫さんの素晴らしい歌がある。

https://www.youtube.com/watch?v=Tz6RIggreC8

「しじまの中で」

オレはただ窓に座って外を見てただけなんだよ
だから気にするな、、
オレの友だち
オレの友だちよ、、


 

2020年10月19日月曜日

秋冷

朝晩は結構冷えるようになって、うっかりギックリ腰になってしまった。20代の頃、重いものを迂闊に持ち上げようとして初めてなって以来時々なってしまう。「ギックリ」するきっかけはくしゃみ、寝返り、その他様々。 今回は絵を描いていて描画の方向によって身体の向きを変えようとした時、何やら不自然な負担を腰に与えたのだと思う。40歳以降はうっかりしないように気を付けるようになったので回数はそれまでより減ったけど、近年も年に一回くらいなっている気がする。やってしまった今日よりも明日からが厳しいんだよね。

20代になった時は腰を庇って動かなくてはならないので動き方がお爺さんのようになってしまって思わず自分で笑ったけど、最早お爺さんが冗談ではなくなって来た。年を取ると色んな場面で老いを感じる。先日は体温計のボタン電池を交換しようとして、なんて事ない作業に5分ばかり悪戦苦闘した。直径5mm程度の小さなボタン電池を交換して蓋を閉めるだけがなんとも難しい。蓋をはめ込む為の小さな突起が老眼鏡をかけていてもよく見えないので、手探りで察しを付けようとするんだけどなかなか上手くいかなかった。僕は若い頃とても視力が良かったので「見えない」と云う不自由を感じた事がないし、手先の細かな作業も苦に感じる事はなかった。些細な事だけど、こうして出来た事が出来なくなる、思うように身体を動かす事が出来なくなる、と云うのは地味に堪える。やっとの事で体温計の電池を交換している自分は側から見れば間違いなく老人に片足突っ込んでいるだろう。なんで体温計の電池を交換する羽目になったかと云えば、コロナ以降なんとなく心配で毎日のように検温している為。

角田光代さんのエッセイには、加齢を感じる現象として食べ方が汚くなった。と書かれていた。それは箸で掴んで口にちゃんと運んだつもりがポロっと落としてしまう、とかそう云う事。自分の身体を自分の意図した通りにコントロール出来なくなって来る、と実感を込めて書いてあった。 読んで「分かる、分かる」と共感した次第。

僕は絵を描いたりギターを弾いたり、手元を意図した通りに動かせないと困る作業を毎日している。絵については若い頃より丁寧に時間をかけて作業をするようになった所為か、今のところ老眼で見え難い事以外は不自由は感じていない。若い頃のようにむやみに力んだり緊張したりしなくなったので、むしろ最近の方が意図した通りに手が動くようになった気さえする。 ギターはどうだろうか?練習不足で上手く弾けない事が多いので、指がもつれるのを加齢の所為には出来ない気がする。ともかく、若い頃弾けてた事が弾けなくなったとは思わない。思うに、これは毎日のように長年続けている事だからその部分だけは今のところ維持出来ているって事かも知れない。だとすれば、毎日の生活の中になるべく身体を動かす習慣を多く持つようにした方がいいと思う。

掃除洗濯を面倒がらず毎日しよう、自炊買い出しは毎日しているが今後も続けよう。一日置きの散歩は毎日にするか。等々出来るのはこんな事くらいだけど何もしないよりいいと思う。そう云えば数年前に買ったダンベルがあるけど全く使っていない。なんでか分からないけど「運動しよう」って思うと全然習慣にならない。そのかわりギターをもっとマメに練習するか、。

 すっかり秋も深まって、老いを実感するには絶好の季節。 



2020年10月2日金曜日

中秋の名月

 今日から10月。今夜の月はとても明るい。中秋の名月だそう。でも今日みたいに明る過ぎる月よりも、出ているのに気付かないような静かな月が美しいと思う。とは云えこれは夜に灯りを取るのが容易な現代人の感覚だろうな。夜がしんしんと暗く灯りが貴重だった頃は、明るい月がさぞ頼もしく心踊る美しさだったのだと思う。

 些細などうでもいい不満を幾つか。僕はパスモを持たず未だに小銭で切符を買って電車に乗っている。しかしひと月前にどうしても駅構内のコインロッカーを使う必要があり、今は小銭使用不可でパスモを使うしかなくて買った。でも電車に乗るには使わずにいた。先日新宿で小田急線からJRに乗り換える際、JRへの直通改札が切符では通れなくなっていて乗り換えがとても面倒だった。こうやって仕方なくパスモに変えざるを得ない状況に持って行くなら最初っからもう小銭は使えませんってスッパリ変えてほしい。そしたらすぐ諦めるんだから。パスモが嫌いなのは料金を前払いさせられるシステムだから。それが僅かに得だとかそんなの関係ない。

10年ぶりくらいで国勢調査が来た。以前は3年に一回くらい来ていたけど、無作意に選んでいるらしいからたまたまだよね。コロナの影響で対面での回答が出来ないので郵送かオンライン。ならばオンラインでと思ったら、ウチのパソコンのブラウザでは非対応だった。スマホで出来たので別にいいんだけど、こう云う事ってもっと融通が利くようにシステムを作れないものなのかな?給付金申請の時も同じ事を思った。10年落ちのパソコンを騙し騙し使ってる貧乏人は給付金ももらえないっておかしいよね?まあ、オンラインで出来なければ郵送すればいいんだけども。


楽器や音響機材の国内最大の安売り店「サウンドハウス」。僕はまだ小さな安売り店だった1992年頃から愛用していて、カセットテープMTRやshure-SM57、安価なMIDIキーボードなどを購入していた。要するにその頃からマイナーな宅録ミュージシャンにはありがたい店だった。その後A-DATからDAWが普及してそれなりのクオリティの音源が自宅でも作れるようになって「宅録」は予算のないマイナー音楽家だけのものではなくなった。むしろ宅録普及によって大きな録音スタジオや製作予算を持っていたレーベル等の方が打撃を受けただろうと思う。そして最近「サウンドハウス」は配信のシステムを詳しく紹介しながら、必要な機材をいろいろと紹介する記事をサイトに載せている。簡易な配信システムならマイナー音楽家が個人で必要な機材を揃えるのはそれほど難しい事ではなく、昔宅録を普及させたように、今度は誰もが手軽に配信ライブなどを出来るように紹介している。きっと昨今たくさん売れるんだろうと思う。こうやって配信も資本とノウハウがなければ出来ないものではなくなって行くならそう云うのはいいなと思う。サウンドハウスさんはただ商売熱心なだけだろうけど、。


 

2020年9月4日金曜日

夏の記憶

印象に残っている夏の記憶。高校2年生の夏休み、既に高校卒業後は都内へ出て一人暮らししようと決めていたので、アパートを借りて引っ越しする為の資金を貯めなくては、と考えて夏休み中はバイトに励む事にした。どう云う経緯で探したのか思い出せないけど、丸ノ内線、淡路町駅近くのビル解体現場で解体作業のバイトだった。馬鹿デカい金槌でコンクリートの壁をぶっ叩き、粉々になった廃材を麻の袋に詰めて、階段で外へ運ぶ。5階建ての旧いビルにはエレベーターが無く、真夏の肉体労働は過酷そのものだった。上半身裸、短パン一丁で朝8時に集合〜4時半の解散まで一ヶ月みっちり働いた。昼休みはビルの屋上で近所の弁当屋で買って来た昼飯を食ってゴロゴロ寝っ転がっていると、ジリジリと陽に焼かれてしみじみと「暑いな〜」と思った。肉体労働の現場と云うのは、無骨だけど気取らない素朴な人間関係だと、知らない人は誤解する場合もあるけれど、実は結構ネチネチと陰湿な意地悪をされる社会で、高校生バイトの自分は汚れた現場の掃除を命じられるんだけど、掃除した直後の場所にわざとタバコの吸殻を捨てて「おい、ここに吸殻落ちてるだろ?」とか怒鳴られるのが日課だった。その度に箒でぶん殴って辞めてやろうかと思う。そんな自分の暑苦しさも含めて、本当に暑い夏だった。もう40年前の話。夏休み明けに体重を測ったらバイト前より4kg減っていた。

1年経って高校3年生の夏休み、肉体労働の過酷さに再び耐える自信がなくて、今度は渋谷の蕎麦屋でバイトした。10時に出勤して18時まで。何処にでもあるような普通の蕎麦屋だったけど、昼休み時には満席で店の外に行列が出来るほどの繁盛ぶりだった。近所への出前も含め、12時〜14時は嵐のような忙しさで、自分はこの2時間の為に雇われていたのだった。14時を過ぎれば殆どお客は来なくなって、賄いを食ってぼんやり店につっ立ってるだけで過ぎた。店で働くのは、主人のおっさん(当時40歳前後) とおかみさん、おっさんの弟、パートのおばさん、僕で、おっさんは親から店を継いだ職人堅気の人で、蕎麦つゆの調合もそば打ちの点検も天婦羅を揚げるのも、おっさん以外に出来る人はいなかった。でも店を回しているのはおかみさんの方で、デカい声で方々に指示して仕切り倒していた。「あんた〜!天麩羅蕎麦ふたつ、どうなってんのよ!」「うるせぇな、今やってるよ!」とどなり合う声が店内に響き渡っているのが、この店のデフォルト日常。

バイト募集の張り紙を見てフラっと店に入って来た自分を面接したのはおっさんだった。「ふ〜ん、高校3年生、いいよ、じゃあ夏休みいっぱい来てね」とすこぶる簡単に雇ってくれた。小柄な人で身長160cmちょっとくらいだったんじゃないかな、痩せていて、既に髪が少し薄くなっていて、簡単に云うと風采の上がらない感じだけど、休憩時間になるといつもサングラスをかけて「ちょっと一服してくるわ」と云って小一時間出かけていた。厨房は当然ながら禁煙だったけど「俺はいいんだよ」と云ってプカプカ吸っていた。僕は遅刻したり、どんぶり割ったり、横柄な客と喧嘩したり、散々なダメバイトで、おかみさんにはしょっちゅう怒られていたけど、おっさんは「まあいいじゃねぇか、今度から気を付けるだろ?」とか云って解放してくれるのだった。

そして夏休み最終日。「西脇くん、今日で最後だろ?休憩室で一緒に飯食おうよ」と云われて一緒に賄いを食った。「西脇くんは高校卒業したらバンド活動するんだって?」「はあ、そのつもりです」「俺もさ、若い頃なりたいものがあったんだよね」「何に、ですか?」「今更恥ずかしくて、云えねぇけどさ、、まあ、でも早々に諦めて、結婚してこの店継いだわけさ」「はあ、」「俺は才能もなかったし別に後悔なんかしてないよ、でも西脇くんはやりたい事がうまく行くといいね」「はあ、」「今の西脇くんにはピンと来ないかも知れないけど、本当に立派な事ってのは、自分の為じゃなくて誰かの為に頑張るって事だと俺は思ってるんだ」「はあ、」「いつか、俺がこんな話をした事を思い出してくれたら嬉しいよ。一ヶ月間ありがとうね」

正直云ってホントにピンと来なかった。それどころか、なんだか最後に説教くさい事云われちゃったな〜とか思いながら、給料袋もらって帰ったのだった。まだ井の頭線の駅舎がオンボロで汚かった頃の渋谷から電車に乗って、おっさんの言葉を反芻しながらなにやら胸がモヤモヤした夕暮れ時、自分にとって最も印象深い晩夏の記憶。未だに夏の終わりになるとおっさんの言葉を思い出すのだね。

あの蕎麦屋は1995年頃までは在ったのを確認しているけど、'98年には無くなっていた。5階建てのビルはそのままで全く違う店になっていた。

 自分は当時のおっさんを軽く一回り上回る年齢になったけど、まだあんな言葉を若者にかけてあげられるような大人にはなれていないな。

話は変わって、9月7日(月)〜9月20日(日)まで大阪の音凪と云うお店でイラスト展をさせてもらいます。大きな絵を1〜2枚と、小さなイラストを多数展示します。最終2日間はライブイベントもあります。よろしくお願いします。

 

西脇一弘 イラスト展 2020 @音凪
9月7日(月)〜9月20日(日)

open:lunch 11:45~14:00 / dinner 18:00~24:00
観覧の際は1オーダーをお願いします。

音凪:大阪市北区天神橋1丁目-14-4 友愛ハイツ1F
phone : 06-6353-8515

*クロージングライブイベント
9/19(土) pocopen + 西脇一弘 ゲスト bikke
開場18:00 開演19:00 チャージ ¥3,000-

9/20(日) pocopen + 西脇一弘
開場14:30 開演15:00 チャージ ¥3,000-

*ご予約は06-6353-8515まで



2020年8月25日火曜日

晩夏

8月に入ってから酷い暑さが続いていたけど、ここ数日少し和らいだかも知れない。 知り合いの若者が新たに立ち上げた宅録ユニット?に参加する事になって、ここ数日録音作業に没頭していた。変な楽曲目白押しだけど暗さは無くて、むしろ仄かな日差しを感じるような明るさがいいなと思う。フラット5thやシャープ9thなどテンションを多用しているけど、所謂ジャズマナー?的な使い方ではないので、調性は曖昧で混沌としている。リズムの組み立て方はシンプルで、あまりグルーヴを意識したものではないと思う、、等々を考えつつ、久しぶりに「音を外した」とか「リズム(テンポ)が揺れた」とかをNGの理由にしない作業を繰り返して楽しかった。自分が録音したものはあくまでも「素材」だと考えて、今後どう進めて行くのかは若者にお任せ。どんな音楽になるのかとても楽しみ。 

 近年の「録音物」への考え方は、僕らが若い頃とは一変したと思う。録音した音源はレコードやCDに製品化されてどこかのレーベルから発売して流通するのが僕らが思う「録音物」。近年は「物」として音源が流通するのは一部のマニアックな層の間だけかも知れない。そして、音源制作から宣伝、流通まで本人自ら行える環境が整っているので、少なくとも自分が続けて来たようなマイナーな音楽活動において「レーベル」や「音楽出版社」なんて現在はあまり意味がない気がする。しかしそれでも原盤を保有しそれを商品として売り続けているなら、レーベルは仮に売上ゼロだったとしても報告の義務があると思う。

現在sakanaの全アルバム15枚の中で流通しているのは「Blind Moon」と「Locomotion」の2タイトルのみ。CDでの流通は無くてストリーミングかmp3ダウンロード販売。販売元はMemory Labと云うレーベルで収録曲を預かっているのはドニドニと云う音楽出版社。この2タイトルの売上報告は2010年以降10年間一度も無い。もしこの10年間の売上について訊ねたところで報告するような売上は無いと云うのだろうし「支払われるべきものが不払いだ」と訴えたいわけではない。ただこんな会社から音源を買ったりしないでほしいと思っているだけ。今までに作って来た録音物は早くキレイさっぱり全て廃盤になってほしいと思う。そして聴いてほしいのはこれからのライブ演奏とこれから作る音源だと。

いつだって自分にとっての最良の作品はこれから作ろうとしているもので、もしそう思えなくなったら音楽も絵もやめると思う。 とは云え、自分たちが若い頃に心血を注いだ過去の作品に対して「廃盤になってほしいと思う」しかないのはとても残念だ。だっていつもその時作っている作品が最良だと思って取り組んで来たのだから。

2020年8月10日月曜日

所在ない情景

珍しく連日投稿。ちょっと書いておきたい事があったので。

2010年〜約10年間、下北沢のleteと云うお店の壁に設置されていた絵が、お店の改装に伴って戻って来た。2008年にお店が主催したコンサートのステージに設置する為に「樹の絵」を描いてほしいと依頼を受けて制作した絵だった。依頼に対する報酬は一万円。お店の依頼で描いた絵であり、報酬ももらっているのでお店が必要であればいつまでも使ってもらって構わなかったけれど、不要になったら返却してほしいと思っていた。「依頼」はCDジャケットや雑誌のページにイラストを頼まれる場合と同様で、あくまでもその「絵柄」を制作提供する事で現物の譲渡ではない。と云うか単純に一万円で大きな作品を販売するのは、自分が費やした労力と時間に対して難しい。もちろんこの事はお店と話し合って合意しています。

戻って来た絵は損傷箇所が多かったので、出来る限りの修復を試みて、もしうまく行ったらあらためて販売しようと考えた。作業は思った以上にうまく行って、表から観るぶんには描き上げた当初と変わらない状態に復元出来たと思っている。裏面は継ぎ接ぎだらけだけれど。

2008年の「leteのコンサート」はお店が初めて店外で企画したコンサートで、自分も参加する事になっていたので、なんと云うか、制作に気持ちが入っていたのだと思う。今まで描いてきた絵の中でも特に気に入っている作品のひとつだと思っている。草むらと大きな樹、海なのか河なのか定かでない背景と薄明かりの空、全てがシンプルで所在ない情景。

そしてお店の壁に設置されてたくさんの素晴らしい演奏と共に10年間を過ごさせてもらって感謝しています。

と云うわけでHPの通販ページに載せてあります。
もし興味があったら確認してみてください。(追記:売約済みになりました)
http://kazuhironishiwaki.jp




2020年8月9日日曜日

真夏のマスク

quatre saisons 町田店でのイラスト展、開催中です。暑い季節に100枚のイラストを一気に描き下ろしてこのお店で展示してもらうのが、ここ数年の恒例行事。今年も7月後半に集中して101枚を描き下ろしました。

エアコンNGの暑い部屋で、汗だくのおっさんが小さなベニヤ板のボロ机の前に座り込んで時計を睨みながら、小さな可愛らしい?イラストをテンパって描き続けている様子は単なるギャグだと思う。でもそんな引き籠りのキモいおっさんに成り下がっても、思いがけず可愛い動物が描けた時の喜びがあるのだから上出来かも知れない。23日(日)までなので、よかったら足を運んでみてください。
http://www.quatresaisons.co.jp/shop_list/id=142

話は変わって、外出時はマスクをするのが当たり前になった。暑いと気が遠くなるけど。うっかりし忘れて出かけると終始「すみません」と云う心持ちで居た堪れない。逆にマスクをしないで堂々と歩いている人を見ると、なんとなく強面のガラの悪い人なのかな?と思ったりする。電車に乗ってマスク姿の人々を見渡しながら、マスクを外すとどんな顔だか想像するのが暇つぶしに最適。なぜだか容易に想像がつく人もいて、その場合はあまり面白くないけど、正解が分からない場合はあれこれ色んなパーツを当てはめてみる。そんな風に暇つぶしに利用されていると分かったら気を悪くするかも知れないけど、悪気はないので大目に見てほしい。絵を描いていてつくづく思うのだけど、人の顔のパーツはごく僅かな違い、例えば全く同じ形の目や鼻も位置が1mmズレたら、印象は大きく変わる。そしてもちろん形も大きさも配置もバリエーションは果てしない。当たり前だけどそこに「理想」や「正解」はないよね。





2020年7月28日火曜日

お手本がない事

来月のイラスト展に向けて相変わらず部屋で絵を描く毎日。以前にも書いたけど僕は美大や専門学校で絵を学んだ事はない。いつも自分なりに頑張って描いてはいるけど、美大やその他で絵を学んだ人から見れば、ママゴトにすらなっていないようなものだと思う。若い頃は個展をするとたまたま通りかかった美大出(自称)の人から随分酷い事を云われたりしたけれど、まあ仕方がないと思っていた。20歳前からデッサンの訓練を積み、学校に入れば大勢の中で自分がどの程度かを思い知りながら研鑽を積んだ人から見れば、なんでこんなふざけた奴が個展なんか開いてるんだ?と思うのも無理はない。

でも仕方がない、本当に。先日も書いた通り僕は自分が機嫌よく生きていたいから絵を描いているだけだと思う。世の中で価値があるとされる絵が描きたいわけじゃない。最近よく聞く「生産性」はゼロに等しいだろう、こんなにたくさん絵を描いていても。それでも自分は自分でしかないんだよね。誰にも決められない。

僕が絵を描くのに使う紙はターポリン紙と云う梱包用の紙で90cm幅/30mのロールが1,500円で買える。そして水性ペンキとアクリル絵具を併用して描いている。世の中には同じような事をしている人はいるかも知れないけど、自分は金がないので安く材料を揃えるために30歳になる頃から使うようになった。使い始めた当初はなかなか思うように描けず、いろいろ試行錯誤をしながら今に至っている。だから自分なりの手順や描き方は少し出来ているとは思うけど、美大で教わるような絵具の扱い方とはかけ離れているだろう、たぶん。

別に「独自な事」がしたいとは思っていないし、いろんな事から影響を受けていると思うけど、お手本がない事を手探りでやるのは楽しいし性分にあっているのだと思う。音楽も同じ。他人がどう思うかを必要以上に気にするのはつまらない。もちろん発表する以上楽しんでほしいとは思っているけれど。

ちょっと違う側面から考えると、絵や音楽は自分にとって、ネコや鳥、動物みたいなものかも知れない。動物は食べ物をくれるとか可愛がってくれるとかシンプルで真っ直ぐな要求と理解があるだけで、相手が誰であっても愛する事が出来る。絵や音楽は力を尽くして取り組めば自分みたいに才能なんて微塵もない者にも絵を描いたり音楽を奏でる喜びを感じさせてくれる。

愛する為の条件をあれこれ設定して、選ぶとか選ばれるとか不遜になったり卑屈になったりするのは人間だけだよね。でもそうやってあれこれ考えたから、人間は「弱くても食べられない(殺されない)」社会を作ったのだけども、。でも最近はその社会が随分危うくなっている気がする。

話は変わって8/3(月)~23(日)まで、quatre saisons 町田店でイラスト展をさせてもらいます。小さなイラストを多数展示します。よかったら足を運んでみてください。

「西脇一弘 イラスト展 2020」
quatre saisons 町田:東京都町田市原町田6-1-11 ルミネ町田店8F
http://www.quatresaisons.co.jp/shop_list/id=142



2020年7月10日金曜日

久しぶりのライブ

雨続き。九州、その他の地域の被害が広がらないように願います。

緊急事態宣言が解除されて以降、感染者数が増え続けて、引き続き外出を控える必要を感じている。先日知り合いとなんとなくの世間話をする中で、「若い人達はあまり気にせず出かける人が多いみたいですね、気にするのは30代後半〜、な印象です」と云う話を聞いて、そう云うものかもな、と思う。親が60歳過ぎる年齢〜とも云えるし、子供がまだ小さくて手のかかる年齢〜とも云える。無頓着でいられるのは若者らしさとも思うので批判はしたくないけど、他者への思いやりに欠ける行動にはあまり関わりたくないとも思う。でもよく考えれば年齢で区別出来るものではないな、やっぱり。その人個人の考え方の問題。経済活動しなくては生きて行けない、やりたい事を我慢するにも限度がある、でも感染防止に努めたい、等々、社会も個人もジレンマを共有している。自分はどうしたらよいのか分からず、オロオロするばかりだけども、今までとは違う考え方や行動が求められているのだと思う。

とは云え、先日は久しぶりにお客さんの前でライブをして嬉しかった。座席に距離を取り、演奏者の前には透明ビニールシートが掛けられ、店内は消毒液で丁寧に清掃されていて、お店の配慮は出来る限り行き届いていた。お客さんは休憩中も殆ど会話なく、終演後は速やかに帰って行った。自分自身はいつもとあまり変わりなかったので恐縮だけど、こうやって新たなやり方を引き続き模索して行きたいと思った。

話は変わって、相変わらず部屋に引き籠って絵を描く時間が多い日常。自分が描いている風景や人物には特定のモデルはない。でもその絵を描いている間は、毎日その「場所」に行き、その「人物」に会っているような気持ちで描いている。そうやって絵と深く関わる事は自分が絵を描くのに必要な事だと思っている。

世の中的な価値の話ではなく、自分にとってどれだけ大切か、と云う話。






2020年6月21日日曜日

Both Sides Now

梅雨入り後、涼しい日が続いている。相変わらず絵を描いたりギターの練習したりの毎日。絵を描く時に音楽を聴くか?と訊かれる事があるけど、あまり聴かない。外を歩く子供の声や鳥の鳴き声を聴いている方が絵を描くには丁度いい。でもたまに聴く事もある。今日は久しぶりに若い頃のジョニ・ミッチェルを聴いていた。一番好きなアルバムは「ミンガス」だけど、もっと以前のアルバム。

「Both Sides Now」と云う曲がある。音楽好きなら誰でも聴いた覚えがあるはずの印象的なメロディと内省的な歌詞で知られる名曲。若い頃のジョニ・ミッチェルのギターと歌唱を聴いていると、まさしく天才とはこう云うものか!と感じる眩しい輝きに満ちている。「私は人生を裏表から眺められるようになったが人生なんてさっぱり判らない、、」と云うリフレインに対して当時は「二十歳そこそこの貴女が人生の何を知っているのか?」とずいぶん批判を受けたそうだけど、なんとも見当外れな話だ。

この歌には未経験(未体験)の中にしか存在しない聡明さ、みたいなものが息衝いている。ボブ・ディランの2nd、3rdアルバムにも感じるのと同質のもの。並外れた想像力、観察力と洞察力が達成した見事な表現。経験していないからこそ、これほどの鋭敏さ、深遠さで語れるのだと思う。

僕は若い頃、そう云う作品が好きだったけど、40歳を過ぎてからあまり聴きたいとは思わなくなった。ボブ・ディランやジョニ・ミッチェルを聴くなら近年の歌の方が格段に好きだ。若い頃のような容赦ない鋭さは感じないけれど、額に深く刻まれた経験のような歌唱は何倍も暖かく儚い。

それにしても「Both Sides Now」が世界中のどれだけの人のソングライティングに影響を与えたんだろう?って思うと、たぶん気が遠くなるくらいたくさん居るんだろうな。

話は変わって、最近の中高生がなりたいものの上位にユーチューバーがあると云う何かの記事を読んで、へぇ〜と思う。自分の好きな事を極められれば、それを世に問う窓口がとても身近にあるとも云えるよね。

今はネットで周りの水準?みたいなものが手軽に一望出来るので、どんなジャンルであれ、他人の関心を集めて収益を得るにはどのくらいの事をしなくてはいけないか?を誰もが解っていて、だからYouTubeを観ていると、ビックリするくらいギターの上手い若者はゴロゴロ居るし、絵も同じで、写真やデジタルのバーチャル画像と見分けがつかないようなイラストを手で描いてしまう若者がtwitterやインスタにたくさん居る。更に、そうしたスキルを元手に動画を撮って広告収益を得る程のアクセス数を達成するのはたぶん途方もないハードルで、自己プロデュース能力が問われると思う。例えば高度なギター演奏技術を身に付けて、それを元手にギター教室動画を作る。教え方を通して理解し易さや実用性を基本に人柄や容姿までもが人気を得る要素になるから、無数にある教則動画は皆んな念入りに準備されているのが分かる。そうやって「なんでも自分でやってみよう」って方法でありつつ、独り善がりにならない自己認識を持てるのは最近の若者の特徴だと思う、誰でもではないかも知れないけど。

とは云え、音楽や絵や、好きな事諸々をやりたい動機は他者にどう思われるかだけではなく、自分にとっての必然と云う側面ももちろんあるわけだけれど。でも近頃は「ユーチューバー」になるのが目的で音楽や絵を始める若者ももしかしたら居るのかも知れないね。料理や暮らし方提案みたいのとか、好きな事を利用して動画作成と云う順序が当たり前に思うけど、逆もあるのかも知れない。面白いな。

また話は変わって、6月22日(月)〜6月28日(日)、銀座の月光荘-画室2でイラスト展をさせてもらいます。ゆったりした空間で観て頂けると思います。よかったらいらしてください。

*SNSでお知らせした営業時間が若干間違っていました。以下が正しい時間帯です。すみません。よろしくお願いします。

西脇一弘 イラスト展 2020
東京都中央区銀座8-7-18 月光荘ビル
1F:月光荘 画室2(11:00~19:00) 03-3572-5605
http://gekkoso.jp/gashitsu2.html
5F:月のはなれ(平日11:00~22:00/土日12:00~21:00)
http://tsuki-hanare.com































My love isn't left from your side.
However I go everywhere freely.

私の愛情はあなたの側から離れない。
たとえ私が自由に何処へ行ったとしても。

























The rain which falls locally.
Do you exist there?

局地的に降る雨。
あなたはそこに居ますか?





















「Both Sides Now」の歌詞をイラスト化したもの。




2020年6月7日日曜日

初夏

6月に入って蒸し暑い日が続いている。万年金欠だけど、いつも以上の困窮が続いているにも関わらず時々出費の必要に迫られる。20年前に一大決心で4万円くらいで購入、愛用してきた掃除機が壊れた。メーカー修理対応はとっくに終了。掃除機は自分にとってかなり重要な生活必需品。絵を描くのに最も邪魔になるのは部屋の埃。乾く前の絵の具に張り付いて絵の仕上がりを左右してしまう。なので1枚仕上がって次へ行く際に必ず念入りに掃除機をかけて拭き掃除をしなくてはならない。

買い替えに際して、今まで使った来たメーカーも考慮したけどやはり高価なので除外。安いものを幾つか検討したけど上記の理由で性能面もおろそかに出来ない。散々悩んだ挙句、近年掃除機界でダントツ人気の*イソン社の最安モデルに決める。最安でも定価は5万近いけどネットオークションでは未開封の謎流通品が半額くらいで売られているので2万円強で購入した。使ってみてビックリの快適な高性能。吸引力は申し分なく排気システムのフィルターも万全で、紙パック式と違い吸引したゴミが視認出来るのもいい。でも見た目は自分的にはあり得ないデザインで、しばし購入を躊躇ったけど。でもあまりに使い易いので気にならなくなった。十分過ぎるほど検討した甲斐があった。家電製品の目覚しい進化を体感した次第。

話は変わって、ようやく世の中が動き始めて画材店で絵具や筆を買えたので嬉しい。自分にとってはスーパーでキャベツを買うのと同じくらい当たり前で大切な事なのだな。先日も書いたけど、絵を描いたり曲を作ったりするのは機嫌よく生きていたいからなんだと思う。絵や音楽じゃなくたってなんだっていいんだけど、誰にでもそう云うものがあったらいいなと思う。そうしたら出来るだけそれに没頭して、誰かを憎んだり差別したり見下したり、騙し取ったり騙し取られたり、崇めたり、、する暇なんか無くせばいい。





2020年5月26日火曜日

独り言

僕は小学校入学〜4年生頃まで独り言の多い子供だった。ある日、母親に町内回覧板を2軒隣の**さんの家に届けて来てと頼まれる。当時僕の住んでいた田舎町は、外出時にも施錠する習慣がないような長閑な土地柄で、勝手に玄関を開けて「**さん、回覧板持って来ました〜!」と声をかけるのだ。しばらく待っても応答がないので、小さな声で「**さん留守なのかな?」「いや、いつもこの時間はおばさんがいるはずだよ?」「うん、そうだよね、おかしいね、何処に行ったんだろうね?」などと、一人二役で延々と会話をするのだった。しばらくすると**さんのおばさんが突然出てきて「あんた、ずっと誰かと喋っていたろう?誰と話してたんだい?」と問い詰められて、ビックリして何も答えられずに固まってしまう。おばさんは更に追い討ちをかけるように「気味の悪い子だね、お母さんに云って注意してもらわないと、」と云って僕を家に引っ張って行って母に事の次第を告げて「おかしな子だよ、何処かでちゃんと診てもらった方がいいじゃないの?」などと云って帰って行くのだった。母は幼い僕を見て「独りで楽しそうだな」と思っていたけど大して気に留めていなかったらしく、おばさんにお節介を云われた後も、人に知られると面倒だから気を付けなさいと云われただけだった。

マイペースな母とは対照的に父親は世間体を気にする短気で高圧的な人だった。上記の件も父が知れば一悶着あっただろうが、母は面倒がって何も云わなかった。父親との思い出で最も古いものはたぶん僕が2歳くらいの頃、歩くようになったので父は僕を連れて家の近所を散歩した。小さな路地で向かいから自動車がノロノロ走って来て、、未だ足元のおぼつかない僕は父に背中をポンと押されて転んでしまった。僕は車が近づいて来るのが恐ろしくて泣いてしまうのだが、父はそれを見て面白そうに笑っていた。

後で考えれば些細な事かも知れないが、この一件は僕のトラウマになったのだと思う。以降僕は父に懐かず恐ろしい存在として身構えた。懐かない子供は可愛くなかっただろう。父は弟を可愛がる一方で、勉強はさっぱりダメで、遊んでばかりいる僕を事ある毎に「こいつは出来損ないだな、」疎んじた。そんな僕の気晴らしは毎日学校から帰って来るとノートに絵を描いて遊ぶ事だった。勉強の為に与えられたノートに片っ端から絵を描いて埋め尽くした。なぜか動物の絵をたくさん描いた。本当は動物が飼いたかったけど、母が猛然と反対して実現しなかった。そうやって絵を描くようになって独り言はしなくなった。しかしノートに絵を描く習慣は父親のイジメの標的にもなった。何か「しでかす」度にノートを取り上げるぞ?と脅されるのだった。

僕は自己憐憫を感じていたわけじゃない。嫌なヤツは学校でもどこにでも居る。自分にはたまたま家にも嫌なヤツが居るってだけだった。ただ詰まらない毎日をどうやって楽しくやり過ごそうか?と思っていただけだ。


























大酒飲みだった父親は27年前に59歳で亡くなった。父と腹を割って話す機会を持たないままあっけなく死んだ。

20代半ば頃、バイトさぼりがちで明日食うものが無い金欠時に当時一緒のバンドで演奏していた、同じくらい金の無いヤツに1万円借りた。気のいいヤツで「いつでもいいから」と貸してくれた。なぜすぐ返さなかったのだろう?モタモタしているうちにそいつとは一緒に演奏する機会がなくなった。でも今度会ったら返そうと思っていたけど、単車が好きなそいつは900ccの大型バイクで事故を起こして死んでしまった。返しそびれた想いは心の底に澱のように残り続ける。それはおいてけぼりを食らったように残念だけど、でも先に死んでいった人達を忘れないでいられるからありがたい気もするのだ。

母は中学校に入学した直後に父親を自殺で亡くしている。その事が辛くて母は成人するまでの間、いつどうやって死のうか?そればかり考えていたそうだ。(僕の)父があっけなく亡くなった時、ずっと長い間不仲だった母は何を思ったのだろうか?そんな母は今85歳でおかげさまでなんとか元気にしている。何を思ってどう生きたって人の一生はあっと云う間だ。ただ想いだけが行き場を失う。





















2020年5月22日金曜日

上機嫌

緊急事態宣言が各地で少しずつ解除されている。でも東京、神奈川は月末まで続くのだろう。

コロナに感染して亡くなった人、仕事にならず収入が途絶えて、生活の術を失い諸々の責任を果たせず自殺した人、家族や大切な人をそうした理由で失った人、達の事を考えると不謹慎かも知れないけど、世の中は立ち止まって考える機会を得たのだとも感じる。生産と消費を物凄い勢いで繰り返し続け、誰もがもう少し金があればマシな生活が出来るのに、と思い込まされ、追い詰められて無理やり生活しているのがこれ以上続けられないところまで来ていたのかも知れない。これからどんな風に変わって行くのか?楽観的にはなれないけど、もう今までの様な競争使い捨て社会を続けて行くのは不可能ではないかと。さもなければより熾烈な競争社会になって自分みたいな人間はあっという間に淘汰されるのかも知れないけど、そうじゃないといいな。

話は変わって「10万円給付金」の申請をしようと思い市役所サイトを調べたら、僕の住む市では個人番号カードがあればオンラインで申請出来ると云う。なので実行しようと思ったら、手持ちのパソコン、スマホではブラウザ環境が不十分なので利用不可だった。個人番号カードを入手する為に随分面倒な手続きを3年くらい前に行った覚えがあるんだけど、カードは今のところあまり役に立っていない。郵送申請は申請書が5月22日以降順次郵送されて来るとの事。ちゃんと届くか?しばらく待ってみよう。因みに不評マスクは届いていない。要らないから届かなくていい。

話は変わって、治療工程の都合で3日おきに歯医者へ通う。大きな虫歯治療なので毎回麻酔を打たれて結構堪える。もの凄く痛い事が痛くないんだから麻酔って強い薬だよね。切れた後ぐったりする。痛みは感じないで済んでいるけど、身体は痛みに伴うはずのダメージを受けている気がする。しかし日々の作業を怠ると後で自分を追い詰める事になるので、その日の分の仕事はなんとか終える。

絵を描いてギターを弾くのは突き詰めれば自分が上機嫌でいたいからなんだと思う。不機嫌はよくない。自分の事しか考えなくなるから。

佐賀県の12(douze)にて開催中のイラスト展は24日(日)まで、残すところあと僅かです。難しい状況の中、足を運んでくださった皆さん、熱心に展示してくださっているお店の方々、どうもありがとうございます。よろしくお願いします。














2020年5月4日月曜日

小さな娯楽

5月になった途端に暖かくなったけど事態は好転せず。緊急事態宣言は月末まで延長と云われている。ゴールデンウイーク真っ只中だけど、ウチの近所は人通りなくまるで元旦のような静けさ。

収入減になった人への補償問題が気になるけど、取り敢えず国保と年金の減免・猶予を申請しようと思う。年金はすでに半額減免になっているのでこれ以上は無理かも知れないけれど。

食べるものは近所のスーパーで買えるけど、いつも行く画材店が休業で画材が買えないのが困る。自転車操業的?に絵を描いているので画材の買い置きはせいぜい1カ月分。4月中画材が買えなかったので底をついている。通販も可能だけど、画材店の通販サイトはすこぶる探し難い。細々と品数が多く分類が多岐に渡って、正確な商品名や品番が分からないと探し当てるのは至難の技、普段いろいろ通販を利用しているけど画材だけはお店に買いに行く方がだんぜん楽。しかしそうも云ってられないので頑張って注文してみたら、通販大混雑らしく納品まで2週間くらいかかると連絡が来た。仕方ないけどその間作業しないわけにいかないので、手持ちの画材を勿体ぶって使いながら2週間制作を続けよう。

家から出るのは昼間人通りを避けて近所を散歩するか夕方駅前のスーパーに買い物に行くだけ。しかしそう1日中ベッタリ絵を描いているわけにもいかないので(近年の体力気力的には1日8~9時間が限度だと思う、それ以上は緊張感が持続しない。若い頃は15時間くらい描いていられたのに)、ちょっとした娯楽と云うか気晴らしがほしいと思う。で、最近は度々アマゾンプライムで映画やテレビドラマを観ている。映画は頻繁だとボリュームあり過ぎだけど、テレビドラマの50分前後は丁度いい。

子どもの頃家にテレビがなかったのでテレビを見る習慣がなかったけど、夏休みなどに親戚の家に行くとテレビがあって、ここぞとばかりに見て楽しかった。なぜか海外のテレビドラマが特に面白かった覚えがある。僕が小学生の頃は「刑事コロンボ」なんかがリアルタイムで放送されていた。

近年のテレビドラマははっきりと主人公の年齢がイコールでターゲット年齢層だと思う。映画もある程度そうだけどもっと幅が狭い。だから自分が観る場合主人公が40~50代もしくはそれ以上なら違和感なく観れるけど、20代や30代だとさっぱり入り込めず1話を観るのも困難。でも基準がハッキリしていて選び易くて便利。等々、。

話は変わって宣伝ですが、
5月7日(木)〜5月24日(日)まで佐賀県佐賀市の12(deuze)と云うお店でひっそりとイラスト展をさせてもらいます。新作中心で、大判の人物画6点、中判の版画風作品20点、小さな作品30点を展示する予定です。事態の収束を願いつつ、少しでも楽しんでもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします。

「西脇一弘 イラスト展 @12(deuze) 2020」5月7日(木)〜5月24日(日)
12(douze):佐賀県佐賀市大財4-1-59 phone 070-5278-6724


























I don't ask the destination.
I entrust the way which should be developed to you.
So I'm free.
Am I selfish?

私は行き先を問わない
私は、あなたの発展に委ねる
従って、私は自由である
私は身勝手だろうか?


























My heart was shut in the thought.
However, I go out from there soon.

私の心は思考に閉じ込められた
しかし、私はすぐそこから出て行く


























Something to see instead of a star in the night sky.
That heartens me.
Like your look.

夜空の星の代わりに見える何か
それは私を励ます
あなたの表情のように



2020年4月17日金曜日

記録の大きさ

緊急宣言は5月6日まで全国に拡げられるとニュース。医療現場で働く人による切実な記事を読んで誰もが声を上げなくてはいけない状況だと感じる。数百億を投じてマスクを2枚配るとか、人々の神経を逆なでするような動画を投稿する総理大臣とか、此の期に及んで「暢気さを演出する」悪い冗談みたいだ。そんな表向きのヘンテコな看板(総理大臣)の後ろ側でどんな駆け引きが行われているのだろう?と思ってしまうけど、そんな勘ぐりに意味はなく、取り敢えず分かっている事から判断行動するしかない。

感染が縮小に転じていずれ「もう感染の心配はありません、元通りの日常が戻って来ました」ってなるのを期待するけど、たぶんそれはない。9年前の震災後の原発事故で放射能汚染の恐怖を誰もが感じるようになって、いつか「福島原発の放射能漏れは止まりました。もう汚染の心配はありません」ってなってほしかったけど、ならないまま放射能への心配が続いているのと同じように、感染への心配は生活(日常)の一部になって行くのだと思う。

(とは云え、福島で今も避難生活を強いられているたくさんの人達はそれとは次元の違う意味で日常を奪われたままなので、その人達に穏やかな日常が戻る事を願います。それに云うまでもなく、9年前の震災以前から原発反対も放射能汚染の危険危惧もあったし、何かしらのウィルス等に感染する危険もあったけれども、)

きっと世の中に新しいシステムや常識?が求められて作られて行くのだと思う。もう満員電車の様なぎゅう詰めの狭い空間で汗だくで爆音を浴びる様なライブってなくなるのかな?って思ったりする。いや、そこまで自分には分からないし、僕はもう20年くらいそんなライブの現場には行っていないけど、。ともかく1日も早く終息(収束)を願うけど、既に世の中は変わり始めていて「元通り」はない。

僕は小心者なのでささやかな日常が変わらないで続く事を願う質だけど、仕方がないと思う。放射能やウィルスは人間が掌握出来るものではないから。

震災後政権への不信感が拡がったように、今回の感染拡大も政権への不信感を募らせる人を更に増やしている。方々から利権がらみだと云われているマスク配布などはすぐに止めて、必要な人、場所へ適切な支援、対応をしてほしい。一律10万円8月以降?、、本気で助けようとは思っていないのかもな、やはり。支配層の考える事は残す価値があるもの(人)とそうでないものとの線引きの問題だと思う。自分は真っ先に切り捨てられる側に居る人間なのは云うまでもない。でも有難い事に自分にも助け合う人達がいる。だから生き延びなくてはね。

話は変わってまた少し昔話。僕が高校卒業後都内でアパートを借り一人暮らしを始めたのは1983年。青山の生花店でバイトしながらバンドをやったり給料日にはレコードを買ったり、気ままな一人暮らしだった。電話はなかったので家賃と電気ガス水道代をバイト給料で支払い、残りで銭湯に行き自炊生活の細々とした暮らし。毎月ガス代を集金に来るおばさんに支払っていたんだけど、ある時見慣れないおっさんが集金に来た。先週払いましたよ?と云うと「じゃあ領収書を見せてください」と云われ、保持していなかったので残ってないと云うと「それじゃ支払ってもらわないと困ります」と云い張るので仕方なく払った。確か3,000円程度だったけど自分には些細ではない。後からどうにも不審に思い、怪しげな領収書に記載された電話番号に公衆電話から苦情の電話かけてみたけど当然通じない。当時はそんな詐欺が身近だった。あと見知らぬ女の人が訪ねて来て「英会話セット」みたいなのを売りつける押し売りもあった。こう云う詐欺は単身者用のボロアパートがターゲットにされ易かった。

その時の経験が教訓になり、以降僕はなんであれ支払ったものの領収書は全て保持するようになった(さすがにスーパーのレシートまでは取ってないけど)。ウチの押入れには今も1983年〜現在に至るまでのあらゆる領収書が段ボールに入れて保管してある。近年は紙の領収書は随分減ったけども。そしてパソコンを買ってネットに繋いだのが2003年だったけど、その後全てのメールの送受信履歴は保存してあるので、メールによる領収書等も全て残っている。ネットで買い物をするようになって今までに10回くらい通販詐欺に出くわしたけど支払った金が回収出来なかったのは1回だけで、あとは全て回収出来たのはメール履歴を保管していたのが役立ったから。回収出来なかった1回については市役所の消費者相談所にも行ったけどダメだったな、残念。

自分の様に職業的にもその他どんな面でもなかなか信用されない人間にとって、記録は唯一の頼れるものだと思っている。だからこれからも領収書やメール履歴はどんなに無駄が多くても保存し続ける。近年はiCloud等のバックアップもあるから便利。

時々確定申告などで必要があって古い領収書やメールの履歴を確認する時「へぇ〜20年分の記録ってこんなもんか、」と思う事がある。人の一生分の記録って小さなものなんだな。

記録は自分の人生の小ささを教えてくれる。それは怖い事だろうか?、、大きいと勘違いするよりはマシ。小さいと感じる方が有り難みが増すから。



2020年4月9日木曜日

追憶の中に見出すもの

緊急事態宣言が発効されて、コロナウィルス感染拡大防止の為に「行動を変える必要がある」「自分を、愛する人を守る事が出来るのか?それは皆さんの行動にかかっている」と総理大臣が云う。ならば「皆さん」に、行動を変える事に伴う損失を補う為の、明確な援助を約束しなくては不満の声があがるのは当たり前。自分は普段政治的発言はしない方だけど、いつも凄く無理をして税金(国保含む)をギリギリで支払っているので、なのにいざとなったらその対応かよ?とは思う。対応の内容は未だ流動的なので具体的な数字を云っても意味はないかも知れないけど、「フリーランスの場合の補償条件は年収が36万を下回った場合」って月3万円で生活出来る人ってどんな人だろう?現時点で自分がもらえるとは思っていないけど、税金や年金の支払い免除を期待している。

でも取り敢えず自分の事は置いといて、もっと切羽詰まって困窮している人達を考える。云うまでもなく今までライブや展示でお世話になったお店はどこも存続の危機に瀕している(たぶん)。行政からの補償も大切だけど、たくさんお世話になって来た身としては何か出来る事はないだろうか?と思う。でも現時点では課金制の配信ライブくらいしか思い付かない。これからも考えて行く必要を感じている。それは云うまでもなく自分の為に。

コロナウィルスの影響で仕事を失った(減った)人達も、負担が増えて過酷な仕事に従事する人達も困難に直面している。専門家?の予測は色々目にするけれど、1日も早くに感染縮小から終息へ向かう事を願います。

少し話は変わって、SNS等で「此の期に及んで政治的発言をしない人はダメだ、どう云うつもりなんだ?」と云う批判を度々見かけるようになった。皆で力(声)を合わせて状況を変えて行かなくては、と云う考えは分かるけど、こう云う発言が多くなる事を恐ろしく感じる気持ちも自分にはある。何を信じるか信じないか、何を諦め何に希望を見出すのか、を周りの空気を読んで決めて行く人が増えるのなら、。

僕も随分前から現政権は信頼出来ないと思っています。ともかく今は必要なところ(人)へ迅速に補償、支給が行われる事を求めます。

更に話は変わって、また少し思い出話。
横浜に住んでいた中学生の頃、僕の通う学校は非行と暴力沙汰が横行する学区内屈指の問題校だった。廊下ですれ違う先輩に機嫌悪かったと云う理由だけで殴られ奥歯を折られるような環境で、金を出せと云われて無いと云えば蹴られ、明日家から持って来いと云われて無理と云えば殴られ、が日常茶飯の中学校3年間はそれはそれは詰まらない日々だった。だからありがちに音楽(主に洋楽)にのめり込んでそれだけを楽しみに凌いだ。そんな頃の事を最近よく思い出す。あんなに何をするのも嫌な毎日だったはずのに、なぜかもう戻れないのが残念で仕方がない。追憶ってそう云うものか?思い出を美化してるなんて単純な話ではなくて、きっと「あの頃」に置き忘れた想いが色褪せないまま残っているんだな。

誰もが助け合って生きている。それに帳尻を合わすかの様に「理不尽」は生きている限り付いてまわる。何処に居ても何をしても狡猾な政治家みたいな人に出くわす。そんなクソ野郎を恐れる必要なんてない。まるで居ないかの様に明るい方を向いていよう。とは云え何も云わないでいると「云わないのが悪い」と云う連中だから云うべき時に云わなくてはいけない。



2020年3月29日日曜日

時が経って得られるもの

新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防ぐ為、なるべく外出しないように、なるべく人に会わないようにと云われている。万年引き籠りの自分はあまり変化のない生活だけど、閉塞感や危機感は感じている。でも世の中に不機嫌が蔓延している時に、更に不機嫌を撒き散らすのは避けたい。感染を拡げないために自分に出来る事をシンプルに考えたい。

まずは自分が企画している今後のライブの中止延期について。規模の大小は関係なく、誰もが自分事として向き合わなくてはならないと思うので。でももちろんなるべく中止したくない。自分も色々考えて準備している事だし、関わってくれている人達も同様だから。まだ決められていないけど、この状況が続く、もしくは悪くなるようであれば中止せざるを得ないと思う。1日も早く事態が終息する事を願ってやみません。

話は変わって何の脈絡もないけど少し思い出話。自分の様に特に音楽を学んだわけでもなく、ただ好きでやり始めて、そのうち小さな店で演奏するようになった、みたいな人達なら分かる話だと思うけど、やり始めた時期に何かしら縁があってお世話になったり、影響を受けたりした音楽家の人達って、音楽を続けて行く限り付いて回る。こんな云い方をするとよくない事みたいだけどそうじゃなくて、ただそう思う。「仲間意識」とか「孤高」とか、そんなつまらない話じゃなくて、単純に「縁が生じる」人や場所と、そうではないものが、きっと誰にでもあると云う事。

僕がsakanaを結成して都内のライブハウス等で活動を始めたのは1984年。デモテープのカセットを持ち込んでなんとか出させてもらうのだけど、毎月お客さんは知り合いが2~3人の状況が続く。そしてその頃好きで度々ライブに足を運んでいたバンドでドラムを担当していた人と顔見知りになり、その人が「最近別のバンドに参加していてギターを探してるんだけど」と連絡をもらって、The GODと云うバンドに参加する事になる。1985年〜1989年の4年間活動を共にして、その間に随分たくさんのバンドをやっている人達と知り合い、それが後のsakanaの活動に繋がったと思う。具体的には割礼など。

sakanaが都内の様々な店で演奏する機会が得られたのも、アルバムを何枚も作る機会が得られたのも、元々のきっかけはThe GODに参加した事だったわけ。

だから現在は誰も気に留めてなんかいないと思うけど、自分は勝手にずっと感謝し続けている。近年は付き合いは全くないけれど、今も何処かで彼等が演奏を続けていると知るとなんだか頼もしいような気持ちになるのだね。








2020年3月3日火曜日

辿り着くべき場所

世間でよく云われるように、信頼を得るには長い時間がかかるけど失うのは一瞬、と云うのは本当にそうだなと思う。もちろん自分自身が何度も信頼を失って来た経験上で思うし、逆に自分が相手を信じられなくなった経験もある。

「信頼を得る」と云う事は、誰も気に留めない小さな約束を黙って守り続けるような事だと思う。音楽を作ったり絵を描くのも自分にとっては同じような事。

小さい事柄に律儀な人、正直な人は立派だと思うし自分もなるべくそうありたい。逆に大きな事を口にして自信満々の人ほど信頼出来ない。「ポイントは押さえているから」みたいな要領の良さは自分にとって信頼と最も離れた所に在る気がする。

話は変わって、
先行きの分からない不安が日常を覆っている。入り乱れる情報が世の中の怒りや焦燥感を煽っていて、3/11の震災直後を思い出す人も少なくないと思う。信じられない采配を振るう政治家の様子がSNSに度々流れて、もう「信頼」なんてものは「絵に描いた餅」みたいなもので何処にも存在しないのかも知れない。「総理大臣が変われば」「組織が解体されて一新されれば」みたいな希望を持てる人が果たして今日本に居るのだろうか?時々見かける「誰になったって今よりはいいだろう?」と云う意見に自分はあまり賛同出来ない。

ライブイベント等が次々に中止延期になっていて、もちろん今の状況ではそれは仕方がないと思います。でも今月の岡山での個展は予定通り開催中です。無理にお出かけにならない方がよいと思いますが、来てくださった方に静かな穏やかな時間を過ごしてもらえたらと思います。それが僕の守り続けたい約束なのかも知れません。

西脇一弘 イラスト展 2020 @城下公会堂
3月1日(日)〜3月30日(月) 11:00~18:00 火曜日定休
岡山市北区天神町 10-16 城下ビル1F
086-234-5260 *電話でのお問い合わせは15時以降にお願いします。




















When it's an area with your attentive heart.
I can go everywhere.
Is your heart free?

そこにあなたの心が込められていれば、
私はどこにでも行くことができる。
あなたの心は自由であるか?






















This is the place where you sleep.
The place where I should arrive.

ここはあなたが眠る場所であり
私が辿り着くべき場所


2020年2月22日土曜日

知恵と老い

来月の岡山でのイラスト展に向けて相変わらず部屋で絵を描く時間が多い毎日。

20代の頃、バンド活動とバイトが生活の主だった。絵も描いていたので出会う人にそれを云うと「へえ〜」と興味を持ってくれる人もいて、知人が画廊に勤めているからとか、知り合いにカメラマンがいるから紹介するよとか、云ってくれて色んな人に会いに行った。大抵は40~50代の人で、作品を観てもらって話を聞いた。「君は何が描きたいの?先ずはそれがなくちゃ。アーティストみたいなものに憧れてるだけなんじゃないの?」「人真似じゃなく自分の絵を探さなきゃイカンよ。それは並大抵の事じゃない。日本を出て色んな場所を体験してきた方がいい。特に東南アジア圏を旅すれば少し自分の事が見えてくるんじゃないかな」等々、アドバイスをもらったのだった。僕はアーティストなんて呼ばれるものは胡散臭くて恥ずかしいとしか思っていなかったのでそんなものに憧れた覚えは1度もないけれど、何が描きたいの?君の絵はそんなものなの?と訊かれて全く答えが自分の中に見当たらない事はそれなりに考えるきっかけになった。ただ子供の頃から絵を描くのが好きだっただけでそれ以上の考えがなかったので「そんなんでいいのか?」と自問し始めたのだった。

だから20代〜30代は遅ればせな「自分探し」をしながらモヤモヤしたまま絵を描いていた。でもそうやって悩んでいる事に果たして意味なんかあるのか?とも思ってくるのが40代以降。今から10年くらい前(45歳頃)になんで若い頃の説教を真に受けてそんな事で悩んでいたんだろう?とようやく気付く。自分みたいなつまらない人間を掘り下げて表現するなんて、わざわざするような事じゃなかろうと思い至ってそれまでのモヤモヤがなくなって随分楽しく絵を描くようになった。何が描きたいのかではなくて、何が描けるのか?でしかない。何か出来る事があるならありがたいし、その「出来る事」を少しずつ広げて行けたら楽しさは続いて行く。

長いストロークで淀みない線を引く為には、たくさん描く以外の方法はない。見過ごしていた細部に気付くには描きながらたくさん考えるしかない。長くて80年くらいしか生きられない人生で絵を描く楽しみを満喫するのは到底無理な話だ。取り立てて才能もなく、賢い頭脳も優れた身体能力もない自分ならなおさら時間がかかる。

話は変わって、、

先日10年ぶりに老眼鏡を新たにした。10年使い続けている老眼鏡はすっかり度が進んで焦点が合わなくなっていたので、絵の細かい部分を描く時とても不便だった。絵の作業で1ミリは決して「小さい」わけではない。1ミリのズレや違いは大きな差異だと思う。でも今までの老眼鏡では1~2ミリの見極めは到底困難だったので、見えないけど勘で描いていた。しかし最近更に度が進んだようでこれはなんとかせねばと思い、ヤフオクで2,000円のフレームを買い、激安眼鏡店に持って行ってレンズを入れてもらった。レンズ代は2,500円だったので税込5,000円弱で作れてまあよかった。検眼の際、今までの度より2段階アップすると手元はくっきりクリアに見えたけど、少し離れた場所はさっぱり見えなくなる。今までの老眼鏡はかけっぱなしで出歩く事が出来たのでそれだけ手元にピントは合っていないけど面倒がなくて便利でもあった。なので中間を取って一段階アップのレンズにしてもらった。だから新たな眼鏡も細かい作業に完全にストレスがないわけではないんだけど、今までの状況と比べたらとてもよく見える。これだけの違いを感じると、今までの眼鏡で描いていた近年の作品は果たして大丈夫だったのか?と少し心配になるけど、きっと新たな眼鏡で描いたものと差はないと思う。絵は「眼」で観て描く作業は2割くらいで、残り8割は「頭」で観て描くものだと思うから。更に言うなら「心」で観た情報は思い込みが多く占めるので作画には邪魔になる。

と云うわけで眼鏡を新調して作業がやり易くなったのはよかったけど、それによって作品のクオリティが向上するわけではない。

僕は若い頃視力がとてもよく両眼2.0でその先も見えそうなくらいだった。あらゆるものが鮮明に観えていて、それを当たり前だと思っていたんだな。でも今のように観え難くなってからの方が絵を描く楽しさは格段に増したと思う。

尊敬する音楽家の山口冨士夫さんが晩年にこんな事を云っていた。「人は年をとると知恵は深くなる。身体は衰えるけど、」若い時は力があるけど知恵がない。知恵がつく頃にはそれを使う力がないって事だね。だから少ない力を有効に使うように知恵を絞るしかないんだよね。それは決して嫌なことではない。

絵を描く時以外は今まで使っていた老眼鏡の方が便利なので、相変わらず度の合っていない眼鏡をかけっぱなしにしている。

更に近況。1週間前に右上の臼歯を抜いた。10数年前に治療済みだった歯だけど、根っこがダメになってしまい抜かざるを得ない状況だった。結構な消耗だったけど、実は1年以上前から気になっていたので、まあよかったと思いたい。

更に近況。岡山県瀬戸内市の長島愛生園内、さざなみハウスでイラスト展をさせてもらっています。2月28日(金)までです。静かな美しい環境の場所です。お近くの方は是非足を運んでみてください。そして3月1日(日)〜3月31日(火)まで岡山市の城下公会堂でイラスト展をさせてもらいます。さざなみハウスで展示した作品を巡回しつつ、新たな作品を数点足して展示します。城下公会堂で展示させてもらうのは約5年ぶりになります。是非足を運んでみてください。





2020年2月6日木曜日

キングオブコメディ

前々回の投稿に追記した通り「キングオブコメディ」を観た。感想が追記するには長くなりそうなので新たに投稿する次第。(相変わらずネタバレありです)

確かに「ジョーカー」はラストだけではなく全編に渡って設定やヴィジュアルに「キングオブコメディ」からの引用をふんだんに盛り込んでいるのが分かった。それが分かっても自分にとって「ジョーカー」は面白くなかったし、逆に「キングオブコメディ」はとても面白かった。自分にとって好きな映画の一つになると思う。

どちらの映画も現実と妄想の境目が曖昧に描かれている。「ジョーカー」の最初の方で母親と一緒にTVを観ながら妄想に耽っている様は「妄想」と判る様に描かれていて、その後の様々な描写も妄想なのか?と思わせる前説のように機能している。同じアパートの住人との情事等、妄想だったと判る様に説明されるものとそうでないものの境が分からなくなって、結局ラストシーンによって全部妄想だったかも知れない的な終り方をしている。

「キングオブコメディ」はラストの「成功」は妄想として描かれているけど、それ以外は妙なリアリティがある。視点が主人公以外に据えられているのでたぶんそう感じる。云い方を変えると、主人公と観ている側にある程度の距離を作っているので、そう感じるのだと思う。

現実と妄想の境が溶け始めて「こうあるべき」秩序が外的にも内的にも壊れて行く様を描いて「他人事じゃない感」を突き付けるのが両作品の肝になっていると思うんだけど、自分にとっては「キングオブコメディ」の方が圧倒的に怖かった。家に引き籠もって毎日を絵を描いている自分だって似たようなものだ、と思わざるを得ない。さすがに最後のような成功を妄想をするほど若くはないのだけども、。

そして「キングオブコメディ」は主人公のイカれ方が陽性に振り切れているので正しくコメディで、その「犯罪に至る動機」が好きな女に格好つけたかった、と云うある意味みみっちい理由なところが哀しい。これも妄想とも取れるんだけど現実に逮捕されたと思う方が面白い。あと共犯者の痩せぎすの女性の存在がスゴく効果的で面白い。チャップリンの初期作品の太った相棒?みたいな感じ。

コメディとなると自分はどうしてもチャップリンを引き合いに出してしまう。「キングオブコメディ」の可笑しくて哀しい様と皮肉な描写は正しくチャップリン作品の後継とも思えたけど、チャップリンほど残酷ではない。「街の灯」はたぶん知っている人が多いだろうから説明はしないけど、あのラストの残酷さはスゴいなと思う。盲目だった女性の失望、あらゆる要因が繋がった最も美しい瞬間の失望。英雄であろうと見栄を張り切った浮浪者と「キングオブコメディ」の主人公には共通点も多いけれど、他者の為か自分の為か、が全く違っている。



2020年2月2日日曜日

明るい力

2月1日〜2月28日まで岡山県瀬戸内市 長島愛生園内 喫茶さざなみハウスでイラスト展をさせてもらいます。長島愛生園は国立ハンセン病療養所です。作品はいつもと変わりありませんが、らい予防法が1996年まで廃止されなかった事、隔離されて生きた人々の想いと世の中の様々な偏見と差別について考える機会になりました。

もちろん差別や偏見はない方が善いし、なくなるように努めるべきですが、なぜか差別を受けて苦しんだ立場の人々も人を差別して見下します。差別や偏見はしている当人が気付かないところに潜んでいる場合も多いように思います。この様な傾向は人間の(社会の)暗部にフォーカスしてネガティブな感情を募らせると増幅するように思えます。と云うような事を自戒を含めて考えました。

人には善い方へ向かう力も悪い方へ向かう力も同じように働くのだと思います。ならば自分は、隔離されて生きたハンセン病の方達の人生にも、自分や他の全ての人々と同じように明るく幸せな時間があった事に気持ちを向けたいと思いました。それはとてもささやかで静かで、目を凝らして耳を澄まさなければ気付かずに通り過ぎてしまうようなものかも知れません。

瀬戸内市長島はとても静かな場所だと聞いています。お近くの方は是非足を運んでみてください。よろしくお願いします。

西脇一弘 イラスト展 2020
8:00~16:00 定休日:月・火
喫茶さざなみハウス:山県瀬戸内市邑久町虫明6539
問い合わせ:080-2923-0871





2020年1月25日土曜日

コメディ

昨年話題になってSNS等でたくさんの感想、意見を見たので、これは観ないわけにはいかないな、と思った映画「JOKER」を遅ればせながら観た。以下ネタバレあるので未見の方は読まない方がいいかも知れません。

主人公が自分の人生は悲劇ではなく喜劇だと云っていたように、これは残酷なギャグ、ブラックジョークだと思った。格差や様々な暴力、児童虐待を背景にしているけど、本気で言及しようとしているとは思わなかった。あまりにも踏んだり蹴ったりな主人公の人生。主人公の哀しみも孤独も怒りも壊れる理由もそれに同調する人々の様子も、全てが説明過多で明瞭で、まるで相手に考える隙を与えず思考停止にさせて云い包めようとしているような強引さを感じて映画として好きになれなかった。(ギャグとしても辻褄が合い過ぎていて笑えない)

「タクシードライバー」を下敷きにしてると思われるところが幾つもあった。「タクシードライバー」も好きではないけど、もう少し重たい余韻があった。アメリカ社会の闇みたいなものが少しは描かれているように思ったから。ラストでも変わらずイカれた正義漢だったロバートデニーロが、この映画では見当外れで恵まれた側の良識派として出演しているのもギャグだと深読みしてみたり、。「タクシードライバー」がロバートデニーロと云うスターを生んだPV映画だとすれば、この映画もホアキンフェニックスは熱演だし、きっと優秀な人材を集めて作られたのだろうから映像は綺麗で格好良く、緊張感を緩めないようにいちいち気が利いている音楽はちょっと鬱陶しいくらいだけど、たぶんスターを生んだ映画として残りはしないと思う。

「(思い付いたギャグ)あんたには理解出来ないさ」と云う明快過ぎる最後の台詞とともにシナトラの曲が流れ、カウンセラーの女性を殺して血の足跡を残しながら意気揚々と去って行き、追いかけっこを始める主人公を観て、最後まで徹底したコメディ娯楽作品なのだと思った次第。元がコミックの題材だし、敢えてこう云う表現だと云うのは分かるつもりだけれど。

僕は話題になっているものに白けた意見や斜に構えた感想が云いたいわけじゃない。むしろ映画でも音楽でも話題の作品に触れる時は「確かにこりゃスゴイな〜!」と思いたいと素直に期待している。でも申し訳ないけど*マゾンに2,000円以上も払ってガッカリだった。娯楽作品が悪いなんてもちろん思わないし、軽薄な作品は大好きだけど、作り手の「思惑」ばかりが見えてしまうと気が逸れてしまう。それから、格差や暴力、児童虐待についてもっと深く言及して考えさせられる映画は他にいくつもあると思う。具体例は挙げないけど。

*追記:この事に触れると批判的な云い方になってしまうので書かなかったけど、ラストシーンのダンス〜ドタバタな追いかけっこは明らかにチャップリン映画からの引用(他にもモロにチャップリンのスケートから映像を引用しているけど)。もちろん監督自身もそれについて説明しているだろうけど、この映画の内容にチャップリンを引用するのは単純に不快だった。社会的背景を意識してか、単に無茶なアイデアを面白いと思ったのか、そもそもこの主人公の境遇やキャラクターはチャップリンから発想したとも考えられるけど、この映画はチャップリンの遺した「反骨」の足元にも及ばないと思う。

*さらに追記:後日SNSでラストシーンは「キングオブコメディ」の引用であり、スコセッシ監督へのオマージュだと監督自身が説明していると教えてくださった方がいました。なので上記は僕の早とちりだった事をお詫びします。すみませんでした。「キングオブコメディ」は未見なので近々観るつもりです。その後この映画に対して何か印象が変わったらまた追記するかも知れません。


(以下はチャップリンの言葉)

しばしば、とんでもない悲劇が
かえって笑いの精神を刺激してくれる。
*
あなたが本当に笑うためには、
あなたの痛みを取って、
それで遊べるようにならなければなりません。
*
私たちは皆、
互いに助け合いたいと思っている。
人間とはそういうものだ。
相手の不幸ではなく、
互いの幸福によって生きたいのだ。
*
連中の恨みもやがて過ぎ去り、
独裁者らも死んでしまう。
そして連中が人々から奪った力は、
人々に戻される。
そして連中が死んでしまう限り、
自由が失われることは決してない。




2020年1月14日火曜日

観察

スマホを使うようになって1年過ぎた。便利になったか?と訊かれたら少しだけ。変わった事は、行き先の場所がちゃんと判っていなくても出かけてしまうようになった、LINEとインスタが出来るようになったくらい。ストリーミングで音楽を聴くのはなぜか馴染めないので殆どしない。画面が小さくて老眼では見辛いので1日のスクリーンタイムは長い日でも30分程度。なので持つ前と大して違いはないけど、ガラケーを使っていた時より通信費が僅かに安くなったのでまあいいかなと思っている。

話は変わって、
僕が描く人物画に特定のモデルは無い。だから描いていると時々「こんな角度から耳を観た場合、どう観えるんだろう?」と判らなくなる。そんな時は電車の中でいろんな人々の耳の形を観察する。耳に限らず様々な部位、角度、光線と影の関係等を観察する。頑張って出来る限り覚えて帰宅したらすぐに作業をする。ホントはスマホで写真に撮ってしまえば楽だと思うけど、もし撮った事が見つかったら、どう云い訳しても不審者扱いは免れ無いだろうからしない。それから描いているのが女性であっても、観察するのは男性に限る。細かい瞼の開き方なんかをジッと観察していると、女性の場合気付かれた時、妙な誤解をされかねない。あとガラの悪そうな男性も避ける。「なんか文句あるのか〜?」と凄まれるかも知れない。

ジッと観ると云う行為は悪意はなくても、かなり不躾な事だと思うので、マナーに反しないように気を付けたいと思っている。

特に観察の必要がない時は電車の中では文庫本を読んでいる。読みかけの本がない時はぼんやり窓の外を眺めている。電車の中でスマホを使う事は殆どない。

と云うわけで1年経ってもスマホが自分にとってそれほど重要なツールにならなかった事はなんとなくよかった気がする。でも近々スマホでやるようになるんだろうなって思うのは電子マネーでの支払い。ほんの少しお得なようなので。