2021年5月8日土曜日

メロディ

 最近ビートルズの曲をギターで弾いてSNSで連投している。ライブの機会がなかなかないので、自ずとギターを練習する時間が減って、このまま下手さに拍車がかかるのを少しでも食い止めようと考えた次第。それにしても今更ながらつくづくよい曲目白押し。

まだ20歳前頃、 友達がしみじみと云った。ビートルズの曲の凄いところは誰が弾いて歌ってもよい曲に聴こえるって事だと。確かにそうだ。演者を選ばない。だから自分のおぼつかない下手くそな演奏で聴いてもよい曲に聴こえる。だから弾いていて楽しい。これがアントニオ・カルロス・ジョビンの曲なんかだと自分が弾くと聴くに堪えない。演者を選ぶ音楽なんだね。でもブラジルの人はたぶんそうは思ってない。楽しく歌っていればいいんだって云うだろう。

音楽でも絵でも突き詰めればそれに尽きる。楽しければなんとかなってるんだよね。大した事をしようとか意気込むと楽しくなくなる。

ポコペンさんと昔話をしていてこう云う。「ビートルズって自分たちにもなにか音楽が作れるんじゃないかしら?って勘違いさせる力があったよね?私たちは勘違いしちゃってこんな齢になるまで続けちゃったわけよね?」、、、そうも云えるなと思う。なんだろう?不思議な影響力。明快で力強いメロディと快活な推進力。きっと世界中のたくさんの人々が勘違いしたんだよね。でも今の若者はビートルズなんて知らないんだろうな。

別に悪い事じゃない。



2021年4月12日月曜日

日々雑感

コロナ感染者が増えていて気掛かり。自分は引き籠り仕事だけど、ポコペンさんは販売員で電車通勤だし日々沢山の人に会っているので心配でいろいろ訊ねると、街の人出の感じや店の売り上げもほぼ元通り?になっていると云う。そりゃそうだよな、こんなに長く続いていれば無理もない。しかし今頃こんな事云ってるのもアホっぽいけど7月のオリンピックってやる気なんだ?、無茶過ぎる。

話は変わって、
噂話を好む人がいる。おばちゃんの井戸端会議みたいな派手なやつじゃなくて、もっと控えめで、こんな話あまりしたくないけど、、って体で語られるような。それを聞いてたいして知らない聞き手もその人を解ったような気になって評価分類する。洒落たカルチャー雑誌?(そんなの今もあるの?)に紹介されていたマニアックなアルバムを探して手に入れて悦に入って聴いている(本当に心を打つものかも知れないけど)、どこかのネット記事で今これを観ておかなきゃヤバいだろう?って煽られてやたらに混んでる大きな美術館に行って壮大なインスタレーションを観る(体験する)。与えられた情報に自分で手っ取り早く肉付けして対象を知った事にするのが今のスタンダードなのかも知れない。でも自分はなるべくそうではないようにしたい。もし心を打つアルバムに出会ったら毎日曲間の秒数までカウント出来るくらい聴き込む。持っているアルバムはこれ1枚かってくらいに。そうするとほんの少しだけそのアルバムが分かったような気がする。もし心を打つ絵に出会ったら同じ人が描いた絵を調べて少しでもたくさん観てみる。もし展覧会が行くのが可能な場所で開かれたら速攻で観に行ってくたくたになるまで何時間でも観る。そうしていると絵に描かれた湿度や匂いまで感じられるようになる。1人の人を知るのはもっと時間がかかる。30年以上の付き合いだって謎は深まるばかりで知っている事より分からない事の数が増えて行く。でもたぶん分からない事が増えた分だけ少し知り合えているのだと思う。云うまでもなく人生は短い。百億の情報を得て千人の友達を作るのが望みの人はそうすればいいけど、自分は2~3の音楽と絵、1人と云うとちょっと格好付けてるようだから2~3人の人と知り合えれば十分だし、それだって時間は全然足りない。

話は変わって、
相変わらず部屋で絵を描く毎日。自分にとって簡単に出来る事なんて何もないので、当然絵を描くのも毎日「難しいな〜」と思っている。座標?と云うか視点?、が動かない(ブレない)で描くのはとても重要で、そして難しい。絵について語る時よく「デッサンが上手い、得意」とか云う。これは観たものの形、輪郭を正確に捉えて描く能力みたいに云われる事が多いけどホントはもっと広義で、画面を構成(構築)する能力だと思う。視点がブレない事は安定感のある画面を作る上で大切だけど、気付くと結構ブレていてその度に修正する。もちろんわざと視点をズラしたり、動かしたりするアイデアや技術もあって、それによって不安定で緊張感のある画面を作るテクニックもあるけど、自分は安定感のある静かな画面を目指して描いている事が多い。

思えば20代の頃から今に至るまで、目に留まったものや思い浮かんだアイデアを何度も描いて練習して来たけど、結局視点を動かさないで手を動かす練習だったのだと思う。と云うわけで相変わらず日々練習。やはり人生はリハーサルみたいなものかも知れない。いったいなんの為の??


2021年4月3日土曜日

すっかり春めいて

最近ネット記事を読んで「ふ〜ん」と思う事が多い。いよいよヤキがまわってるのか?

先日「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す恐ろしい未来、と題した文章を読んだ。やはりもっともらしい事が書いてあるけどあまりピンと来ない(検索すればすぐ見つかると思うので興味のある人は読んでみてください)。映画を早送りで観るのはビデオ時代だって倍速で観てるって知り合いは居たし、無駄を嫌うのも、手っ取り早く「何者か」の顔をしたがるのも若者の特徴であって今に始まった事じゃないし、そう云う世相を切り取って嘆く文章が横行するのも昔から変わっていない。ただ時代の流れによって表面的なスタイルが変わってるだけと云うか、観るべき、聴くべき、知るべき対象が物凄い勢いで増え続けているので対応の精度やスピードに変化が生じている。で、自分みたいに鈍臭くてのんびり構えたものは若い頃だってそのスピードに置いてけぼりを食って、まあいいか、自分のペースで勝手にやるだけだと思っている。

でも若者に対して記事の内容と近い印象を自分も持っている側面もある(自分の狭い交流の中での事だから皆がそうだとは思わないけど)。「知らない」「分からない」って言葉を云わない人が多いなとは思う。自分は若い頃も今もよく云う(云いすぎ?)ので不思議なんだな。きっと若者は情報過多で物知りなんだろう。相手を論破する事へ執着心は確かに自分が若い頃の友人達より最近の若者は強いなと感じる。でも自分にはあまり関係ない事だと思っているな。情報をインプットしただけの知識には興味ないから。

記事の主眼はたぶんこの一節に集約されている。「(若者は)てっとり早く、短時間で、「何かをモノにしたい」「何かのエキスパートになりたい」と思っているという」

でも人ってそんなに単純じゃない。こんな風に一絡げにして片付けられるはずはないんだよね。まるで誰かに聞いて来たかのような云い方だけど誰に(何人に)聞いたのだろうか?

この記事には「言外の意味が汲み取れなくなる」と云う副題が付いていた。こんな感じで極論に結び付けて記事をひとつでっち上げるのって難しい事じゃない。 先日の記事もそうなんだけど毎日なんとなくSNSを斜め読みしていれば誰でも書けちゃう内容だと思う。でもこう云う記事に需要があるって事なのか、。自分も読んでるけど。、、やはりヤキがまわってるな。

あ、でも別にいいんだけど、仕事で書いてるんだから。


 

2021年3月27日土曜日

出来た事、出来なくなった事、これから出来る事

最近SNSにsakanaの20~30代の頃に作った音源を連投していた。 実はどこかのレーベルが興味を持って再販してくれないだろうか?と云う気持ちが薄っすらあった。そして実際2~3のレーベルが連絡をくれてライセンスの条件等丁寧に説明してくれたのだけど、原盤を自分たちで管理していると思っていたようで、以前リリースした時のレーベルの元にあるので連絡してみてほしいと伝えた。でも結局スムーズに借りられなかったのだと思う。それっきり連絡はない。

自分たちの旧作品が拙いものなのは分かっているし、残すべき価値があると思っているわけではないけど、今聴けばそれはやっぱりその年齢の時にしか作り得なかったものだと思うし、作った後何度も繰り返し演奏して来た曲には愛着がある。自分は他の音楽家から一緒に演ろうと誘われる事は殆どなかったので自分の音楽歴はほぼsakanaだけ。結局自分で立ち上げたバンドで音楽する以外なかっただけなんだけど、それに唯一ずっと付き合ってくれたのはポコペンさん。そしてこの年齢になってそんなsakanaの音源の大半が廃盤状態で放ったらかしなのはとても残念に思う。若い頃は自分がこんな事感じるようになるとは全然思ってなかったけど。

今だって自分にとって最良の作品はこれから作る作品だと思っているし、(前にも書いたけど)そう思わなくなったら音楽も絵も止めてしまうと思う。でもその反面で以前やった事はもう出来ないんだなとも思う。 先日SNSでこんな投稿を見かけた。「もちろん例外はあるけど、アーティストの代表作は10代から30代くらいに作られたものがほとんど。経験や技術は上がるはずなのに、やはり若い時にしか出ない「気」のようなものにはかなわないのだろうか」

たぶんこれは確かな事で名画を例に挙げるとその多くが30代半ば頃の作品だったりする。そして経験、技術、知識、気力のバランスが取れた最も充実した時期と説明される。自分たちの過去作品を引き合いに出すのはおこがましいけれど、でも今の自分達にとってそれは戻る事の出来ない状態の産物なのは確かで、大袈裟に聞こえると思うけど子供を持たなかった自分には子供みたいなものだと思う。無論出来の悪い子供だけど。こんな事云うと子供を持っている人に「お気楽な事をぬかしてやがる」と怒られそうだけど、子育ての大変さと同じだと思っているわけではありません。

まあそんな訳で過去の作品を可能な分だけでも興味を持ってくれた人に届く状態にしておきたいと思う。40歳過ぎて作ったアルバムだけど、2003年作の「Sunny Spot Lane」と2006年作の「Sunday Clothes」をBandcampでリリースしました。どちらも若い頃に作ったアルバムよりプライベートでラフな作品だけどよかったら聴いてみてください。

https://sakanarecords.bandcamp.com/album/sunny-spot-lane-2

https://sakanarecords.bandcamp.com/album/sunday-clothes

旧い音源を久しぶりに聴くと、当たり前だけどその頃の出来事をいろいろ思い出す。そのうちバイオグラフィ番外編でも書いてみよう。


2021年3月18日木曜日

10年経って

たまには絵を描くことについて。
中学、高校の美術の時間に何か絵を描かされて先生が「最初からちゃんと描こうとしてはダメだ、大まかに描いて行き少しずつ整えながら細部を描いて行くように」と云われた覚えがある人はたぶん多いと思う(少なくとも自分と近い世代なら)。自分も何度も聞いた覚えがあるし、その教えは当たり前のように刷り込まれた。だから20歳過ぎて「絵を描いてみようかな」と思い立った時もその教えは念頭にあったし、わりと近年までそれは自分にとっての「当たり前」だった。でもあまりこの教えを鵜呑みにしない方がよいと今は思う。確かに最初からイメージした通りの描写、色味を実現しようと思っても上手くは行かない。鉛筆画やペン画ならば一部を綿密に描き込みながらその範囲を広げて行くような描き方も可能だしそうしている人をよく見るけれど、絵の具を使う場合は少しずつ塗り重ねて行くことでイメージしている描画に近づけて行くしかない(薄塗りのザックリ描画を完成形として描く場合もあるけれど)。

で、そうやって最初はラフに徐々に細部を、、と作業を進める場合でも最初から一筆毎に完成形のイメージを持って細心の注意を払うべきで、最初は安直に描いてよいわけではない。最初の一筆を置く作業の影響は結局完成形まで残るから。僕はたぶんこの事が身にしみるまでに35年くらいかかってしまった。もっと早く気付けばよかったのだけれど。

この最初は大雑把に、徐々に丁寧に仕上げて行く、と云うのは絵に限らず音楽やデザインその他なんでも行われる手順で、パソコンでのデザイン作業など手前の作業を完全に上書きしたり、後戻りしたり出来る手法の場合は有効だと思う。でも手で絵を描くと云うアナログ作業においては完全な上書きや後戻りは不可能。

話は変わって先日震災から10年経ってSNSはその話題がたくさんだった。もちろん自分も振り返るしあの日の光景や混乱は今も生々しく覚えている。それまで「疑っているつもりだった」けど心のどこかで根拠もなく信じていた事が、まるで実態のないハリボテみたいなものだったと見せつけられて、世の中も自分自身も動揺した。大雑把な云い方だけど「安全や安心が考慮されているシステムの中で生活を営んでいるはず」と云う盲信が危険なんだって事に自分を含め多分たくさんの人が気付いた(ホントはずっと以前からそれに気付くべき実例はたくさんあるんだけど)。そして人は絶望したままでは生きられないから何か(何処か)に希望を繋ごうとする。自分は何を拠り所にしているのだろう?今でもそれを考えると途方に暮れてしまう。でも自分は今まで続けてきた事を営み続けるしかないんだよね。それが自分のしたい事だから。

ネットでとある社会学者の人の著書宣伝の為の記事を読んだ。「この10年で3つの事を諦めた日本の盲点」と題した記事で理路整然と正論が並ぶ内容は成る程と思うと同時に、どの言葉も全然自分の心に届かない事が不思議でもあった。なぜだろう?よく分からない。幾つか以下に引用してみますが、検索すればすぐ見つかると思うので興味がある人は全部読んでみてください。って云うか宣伝してる本を買わないと核心は分からないけれど、。 でも「見て見ぬ振りをして過ごしていこうとする」構造にはまり込んでいる、そこに盲点があるということです」って云うのは、自分は違うと思うけどな。

いずれにせよ、極端で単純化された言説が「言説市場」の競争の中で勝ち残りやすい状況はますます加速しています。

「『変わるべきだ!変わるはずだ!』と唱えてさえいれば変わるに違いない」という幻想が、絶対的に「変わらない」強固さをもっているということ。これが、あの3.11直後の当時から明らかだったわけです。

事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する。

そして、「知識」も必要とされなくなっている。ここでいう「知識」とは、断片的な情報を体系的に組み合わせ、またその獲得に向けた意思と経験への意思が不可欠なものを指します。例えば、何かのプロ・職人が熟練の過程で身につけるもののようなものですね。そういった意味での「知識」を前提とした言説は成立し得なくなる。そうなれば、すでに政治的・経済的資源を得ている人々が持っているような"あらかじめ獲得された立場"が複雑な物事を決める主たる要因となっていくでしょう。

でも逆説的に「知識っぽい情報」は増えているという実感がある人もいるでしょう。とにかくわかりやすく解説することに心血を注ぐテレビや、YouTuberのテロップカルチャー的なものだったり、逆にひねくれたペダンチックなものの見方がバズったりして、なんか新しいこと言っている感をそこに求める層がいることとか。

一方には、「わかりやすさ・理解しやすさ」をひたすら拡大しようとする無限運動がある。他方に「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」というニッチで「高尚な知的趣味」が存在する構図がある。両者に共通するのは、「知識」が必要ない、ということです。

「わかりやすさ・理解しやすさ」というのは、ある情報の体系のパッケージ部分だけを手短に理解する、あるいは、理解したつもりになれることを志向する。それに比べて「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」という態度は、一見知的なようでいて、「知識」の有無を放棄することに接続してしまっている。

「事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する」ような、言葉のゲームが反復されるようになります。そこには「何かやってやったぞ感」と徒労だけが残り、社会の変化は何も起きずに時間が経過していくことになる。

「あってはならぬものを見て見ぬ振りをして過ごしていこうとする」構造にはまり込んでいる、そこに盲点があるということです。目の前の問題を棚上げせず、直視して向き合えるのか。3.11から10年のその後が問われるのはこれからです。


 

2021年2月25日木曜日

発想の着地点

前回の続きみたいだけど、サーバーの解約申請をしてから慌てて新しいサイトを作った。結局旧サーバーの解約は来月末になるそうで、まだしばらくは旧サイトも残っている(サーバーにアクセス出来ないのでファイルを削除出来ない)けど、新しいサイトを公開しました。URLは以下です。まだ不備が多くて暫定的な状態だけど、少しずつ改良して行きます。よろしくお願いします。
https://www.kazuhironishiwaki.net/

新しいサイトを作らねばと考えた当初、面白いものにしたいなと妄想が膨らんでCSSを覚えようと思ったけど、あまりに面倒そうなのであっと云う間に挫けた。結局wixと云う簡易な土台を借りて作ったので楽チンだったけど、がんばって取り組めば面白いものが作れそうな気がする。現在のこう云うサービスってスゴいんだなと今頃になって驚いている。ネットの普及が急速に進んだ1998〜2000年頃、それまでデザイナーや編集者みたいな仕事をしていた知り合いが何人もhtmlを書けるようになろうと勉強していた。近々紙媒体の仕事がなくなると云って。確かにそうだったけど、今となってはこんなサービスがあるのだからウェブデザイナーも大変そうだな、って思うのも遅いのか。ネットは2008年頃?から現れたスマホの普及で更に色んな変化があったと思うけど、自分にとってこの10数年は未知のまま。でもたいして気にしていない。自分の生活ややっている事にはネット以前も以降もそれほど変化がないからだと思う。少し使う道具が増えただけ。

話は変わって、何度か経験した事のあるフォーマットで絵を考える(例えばCDジャケットとか)場合は描いた絵がCDジャケットになったらどんな感じに見えるかが経験によってある程度想像出来るけど、未経験のフォーマットの場合はそれが見当付かないので、なんとなく着地点が曖昧なまま答えを探しているような煮え切らない状態で発想しようとあれこれ思い悩む。そんな時は「これはやってみたってどうせダメだ、何も面白いことは起こらない」と思っているアイデアを実践してみると意外にもそこからパッと視界が拓けたりする。そんな大層な事をしようと思っているわけじゃなくてとても些細な事、でもそれが出るか出ないかは自分にとっては大問題。 そんな事を実感したここ数日だった。自分の日常は長年に渡ってそんな事の繰り返し。アイデアが出ない時は寝ている間もどうしようか?と考えている。出た後の2日間くらいはよく眠れる。そしてまた繰り返し。

ポコペンさんも作詞をしている時などは同じ状態だと思う。そうやって相手がうんうん唸っている時は何も云わずにそっとしておく。それしかない事を知っているから。長い年月をかけたって理解し合える事なんてそんな程度。相手を丸ごと理解しようなんてあり得ない。だから分かり合えるところが大切なのだね。


 

 

2021年2月16日火曜日

小石

 先日若い頃の母と幼い自分の写真を投稿した後、数年前の個展を観に来てくれた母と一緒に撮った写真をパソコンのフォルダから見つけた。確か母が「80歳になったよ」と云っていた頃。面影なんか微塵もなく変わったように思うけど、こういうことって自分では分かり難いものだと思う。側から見れば面影があったりするのだろうか?


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話は変わって、小さな事柄だけど理不尽だなと最近感じたこと。1月末から突然ポコペンさんと自分のホームページ用に借りているサーバーに接続出来なくなった。スケジュール等を更新する為にftp接続を試みるのだけど何度やっても繋がらない。パスワードやその他設定は何も変更していないのでサーバー側の問題だと思う。レンタルサーバーのヘルプセンターに連絡を試みるものの、電話は混み合っているのアナウンスが返って来るばかりで、1日に何度電話しても繋がらず、チャットやメールの窓口に連絡しても応答がない。しかし数日後に漸くメールの問い合わせに返信があり、原因を調べるからアップローダーアプリのエラーメッセージのスクリーンショットを送ってくれとか、アプリはなんなのか?とかパソコンのOSは?とか色々訊かれてそれに詳しく答えた。しかしその後全く応答がなくなって10日以上経っている。そして今日はそのレンタルサーバーから今月分の請求メールが来た。まだ使えていた期間の請求だし、別部門でヘルプセンターと請求メールには何の関係もないのは分かるけど「雑」なものだなと思う。こんな対応を個人経営の小売店がやっていたらあっという間に潰れてしまうはず。もうこのサーバーは解約しようと決めたのでどうでもいいのだけど。 

なのでもしホームページをチェックしてくれている方がいたら、そのうちURLが変更になって今までのサイトは見れなくなると思います。新たなURLが決まったらまたお知らせします。

こんな風に小石に躓く程度の理不尽はその辺にゴロゴロしている。

追記:上記サーバー不具合の件、結局ヘルプセンターに何度も回答を催促したにも関わらず応答なしで、不具合はそのままなのに今日はヘルプセンターの対応に対するアンケートが送られて来た。あまりに酷い対応に唖然としている。催促に対して何の応答もせず、問題は放置したままなのに「解決済み案件」として処理したわけだよね。些細な理不尽とは云えこんな事がまかり通るものなのか???