2019年7月30日火曜日

sakana biography 2004~2018

2004年7月末に下北沢leteで初めてライブをさせてもらった。小さなギターアンプを2台持ち込み、小さな卓上ミキサーとマイクを繋いで簡易PAのつもりでボーカルを出力した。どのくらいが適正音量か?ギターとのバランスはどうか?まるで見当がつかずテキトーだった。演奏者の立ちスペースは2畳分くらいしかない。目の前50cmくらいのところに最前列のお客さんが座る。音響も含め全てが自分達には未経験の状況。曲目は当時鈴木君と3人でいつも演奏していた「ラブシンガー」や「サブウェイルー」などに加えて、ギターと歌だけで、と意識して「ミスマホガニーブラウン」など。あといつか演ってみたかった「Chega De Saudade」を演奏した覚えもある。しかしどれもあまりうまくは行かなかった。新たな試み?や未経験な事が多過ぎて課題ばかりが残った。でも「次回も是非」と云ってもらい、確か10月に2度目の出演になったはず。そうして少しずつ2人でどんな曲と演奏が出来るのか?試行錯誤しながら新しい曲を増やして行く。

2004年2月からスタートしたsakanaのホームページに絵日記を書いていた。それまで日記をつけた経験がなく、果たしていつまで続くやらと思っていたけど、夏頃に早くも煮詰まっていた。今思えば、何か面白い事を書かなくてはと一丁前に気負っていたのかも知れない。その後何も考えず「ただ書いている」状態になってからは13年以上続けるのだけど、この時点では「日記はしばらくお休みします」と断って書くのをやめてしまった。そして代わりに?何か物語を書いて載せます、みたいな事を書いた。2~3ヶ月そのまま放っていたんだけど、自分の誕生日の前後(9月)に5日間パソコンの前に座り込んで「ノアラとヨッコラ」と云う小さな物語を書いた。物語と云っても殆どストーリーと呼べるようなものはなく、取り留めのない退屈な内容だった。でも自分には書く理由があった。旧いbiographyに書いたように僕の父親は1997年に突然死んだ。その後ずっと独り暮らしをしている母親に向けて書いた物語だった。直接母親にまつわる話が出てくるわけではないけど、「人はだれでも幼い頃に身近な人間から云われた事、教わった事、経験した事がその後の人生を大きく左右する、そこから逃れる事は出来ず、ずっと心の中に在り続ける」と云う事を母親に伝えたかった。回りくどい伝え方だったかも知れないけど、もし母親が独り暮らしの中で、過去を振り返り寂しい思いをしているとしたら、そんなのは見当違いだと云いたかった。だからこの物語はホームページにアップする前に母親にプリントアウトしたものを郵送した。母親は「面白かったよ」と言葉少なに返事をくれたけど実際どう思ったのかは判らない。

そう云えば「ノアラとヨッコラ」を書いていた時、ポコペンさんは吉祥寺マンダラ-2で十数年ぶりに独りで弾き語りのライブをした。確かお店の方が企画してくれたのだと思う。これが後々ポコペンさんのソロ活動へ繋がって行く。

ホームページに「ノアラとヨッコラ」をアップしたのは10月中旬だったと記憶しているけど、それから数週間後、前述したデザイナーの山田さんから連絡があった。山田さんはこの頃、K2と云うデザイン事務所に勤めていたけど、出向でアートンと云う出版社で働いていた。「ノアラとヨッコラ」を読んでくれて、面白かったのでアートンから出版出来ないか自分が企画して社内でプレゼンしてみてもいいか?と云ってくれたのだった。本にするなんて考えてもなかったので驚いたけど、半信半疑のままよろしくお願いしますと返事をした。確か渋谷の編集室に挨拶に行った覚えもある。でもその後しばらくこの話は途絶えた。

2004年秋〜冬。leteで2度目か3度目に演奏させてもらった時、大きな絵を2枚持って行って壁に飾らせてもらった。店主の町野さんは絵を気に入ってくれて、年末にleteで個展をさせてもらう約束をした。この頃新たな出会いがあった。10月10日に吉祥寺マンダラ-2でsakanaのライブがあり、滝本晃司さんの前座を務めた。日常と非日常が同じ強度で混在する滝本さんの不思議に美しい歌世界に引き込まれて聴き入った。滝本さんはsakanaの音楽に興味を持ってくれて後々まで交流が続く事になった。この日のsakanaは「例えば」「スマイル」「Good Idea」など後のアルバム「Sunday Clothes」に収録する曲を何曲か演奏した。

2004年末、sakanaは渋谷クアトロでカルメン・マキ&サラマンドラの前座を務めた。勝井祐二さんがサラマンドラのメンバーだったので勝井さん経由で誘ってもらったのだった。sakanaは相変わらずなヘナチョコ演奏だったけど、サラマンドラの凄まじい演奏にビックリした。松永孝義さんと芳垣安洋さんのリズム隊の大理石のような堅牢さ、、。leteでの個展ではモノクロの大きな新作を4枚と小さなイラストを少し展示した。そんな感じで2004年が過ぎて行った。

2005年は月光荘での個展で始まった。年末にlete、年始に月光荘で個展と云うパターンが2007年1月まで続く。本当はもっと続けたかったけど、月光荘画室3が在った旧いビルが取り壊しになってしまった。2月6日マンダラ-2でsakanaのライブがあった。ラブジョイのbikkeさんとふちがみとふなとの渕上さんのデュオ「JB」とご一緒した。楽曲も歌声もタイプの違うお2人の絶妙なバランスが美しく、時にユーモラスで楽しい演奏だった。これ以前からお2人とは面識があったけれど、以降ご一緒させてもらう機会が何度かあった。この後「JB」がアルバムを作った際ジャケットをデザインしたのは前述した山田さん。こんな風にいろんな繋がりが少しずつ生まれて広がって行く。当たり前だけど「何かをする」ってこう云う事だ。独りで出来る事なんて何もない。

1986年頃から交流のあった旧い知り合いから誘われて、5月にパリの小さなギャラリーで個展を行う。この頃たくさん制作していたモノトーンの静物画や版画風の作品を17点ほど丸めて担いで設営の為に飛行機に乗った。10年ぶり3度目の渡仏は1週間の短い滞在だったけど、楽しかった。帰宅後、この時の旅行日記みたいなものを書いて「ノアラとヨッコラ」を載せたまま中断していた絵日記の再開のきっかけになった。

夏頃思い出深いsakanaのライブがあった。7月3日原宿のFABで割礼、灰野敬二さん、コクシネルとご一緒したイベント。割礼は旧知のバンドで何度もご一緒していたけどこの時はかなり久しぶりだった。灰野さんも何度かご一緒させてもらったけどこの時は久しぶり。コクシネルは20代の頃に繰り返し音源を聴いてファンだった。初めてご一緒して聴き親しんだ名曲が目の前で実演されて嬉しかった。それにしてもこの日の灰野さんは凄かった。独りの弾き語りだったけど、完全に場を圧倒していた。僕はおっかなくて挨拶するのがやっとなんだけど、ポコペンさんは楽屋で灰野さんと楽しげにお喋りしてた。不思議な光景だったな。実はこの時、sakanaは次のアルバム「Sunday Clothes」の制作真っ最中。営業時間外の真夜中のleteを借りて、録音機材を持ち込んで録音させてもらっていた。

歌とギター2本でのライブ演奏をそのまま夜中のleteで実演、録音しようと思っていた。持ち込んだ機材はblind moon〜sunny spot laneの時と同じくアナログミキサーとA-DAT2台。マイク3本。4畳くらいのスペースにマイクを3本立てて、歌とギター2本を同時に演奏して録る。各パートをバラバラに録るよりも演奏も録音も格段に難しい。なるべく歌が納得出来ているテイクを優先するつもりなんだけど、歌がうまく行っているテイクはどちらかのギターにミスがあるとか、その逆とか、或いは全体まずまずのテイクだったけど、外をものすごい音を立ててバイクが走り去ったとか、そんなこんなで制作は相変わらず難航した。秋から冬にかけて何日録音させてもらったか正確な回数は覚えていない。でも1回につき8時間くらいは作業をしたから、各曲につき10テイク以上は録ったはず。2005年末までに録り終えたかったけど数曲納得出来ず2006年に持ち越し。録音開始時に町野さんに伝えていた作業にかかりそうな日数を遥かに超過していた。非常に少額だったけど借り賃として謝礼を支払っていたけどそれでは全然足りなかったなと思う。でも町野さんは鷹揚に対応してくれた。

2005年11月にポコペンさんはフィッシュマンズの再結成イベント「THE LONG SEASON REVUE」に出演して2曲歌った。僕は渋谷AXに聴きに行ったけど、広い会場は満員電車状態で最後まで聴いていたらヘトヘトになった。ポコペンさんに直接依頼があって話が進んだので僕はこの件の経緯は何も知らない。ただsakanaではあり得ないような大会場でポコペンさんは気持ち良さそうに歌っていたのが印象的だった。

12月15日〜18日にまたleteで個展をさせてもらった。この時も大きなモノクロの絵を5枚と小さなクロッキーを数点展示した。2005年も慌ただしく過ぎて行った。

2006年も月光荘の個展で始まった。個展が終わったらすぐにleteでの録音作業を再開。残り3曲だったと思う。最も難航した曲は「Dear My Friend」と「その気になれば」「Clothing Myself」その3曲も2月に歌とギター2本はなんとか録り終えた。録り始めた当初はそれだけで完成するつもりだったけど、今回のアルバムはどうもこれだけでは足りない気がして、ポコペンさんと相談してくじらの楠均さんにドラム、バッファロードーターの大野由美子さんにスチールパンで参加してもらう事にした。楠さんは僕がお願いしたかった。大野さんはポコペンさんがフィッシュマンズに参加した時の縁でお願いする事になった。お2人にleteまで来てもらって大野さんに2曲、楠さんに4曲演奏してもらった。お2人共とても素晴らしい演奏をしてくれた。2人だけの演奏ではデコボコしてチグハグだった曲が、楠さんと大野さんの演奏が重なって、歌に沿って自然に流れて行く演奏になった。ここまででleteでの作業は終了。

その後、機材を家に持ち帰って、更に簡単なキーボードとエレキギターをオーバーダビングしてミキシング作業へ。ミックスは相変わらず家に引き籠って何テイクも作った。しかしどうしてもなかなかうまく行かなかった。やはり狭い空間で歌とガットギター2本を同時録音しているのでバランスを取るのが難しい。そして後からダビングしたパートがベーシックにどうしてもうまく馴染まない。と云うわけで頑張ってみたもののイマイチ納得の行かない音源が出来上がった。でももう後戻りするつもりはなくて、この音源に最善のマスタリングをして4月にリリースしようと決めた。

マスタリングはやはりポコペンさんがフィッシュマンズのライブに出演した時の縁でZAKさんにお願いした。そしてZAKさんはアルバム全体の流れを考慮しながら素晴らしい音作りをしてくれた。デコボコしてなんとなく聴き難い感じの音源だったけど、スッキリと穏やかに聴こえる音になっていた。この時点でもそう思っていたんだけど、このマスタリングが本当に素晴らしいのだと数年後に一層気付く事になった。作った音源がどんな状況、環境で聴かれるかは時代と共に多様化している。静かな自宅で?雑音の多い野外で?立派なオーディオ装置で?小さなCDプレイヤーで?mp3プレイヤーで?パソコンで?等々。マスタリングはそれをどこまで想定するか?が難しいと思うけど、僕はアルバム「Sunday Clothes」を後々様々な状況で聴く機会があって、どんな状況でも自然に聴ける音場感になっている事に気付いてとても感謝した。

個人的にsakanaが発表した全アルバムの中で「Sunday Clothes」が最もよい作品だと思っている。アルバム制作中にあまりにも聴き過ぎてしまう所為か、リリース後自分たちの作品を自ら聴き返す事は殆どないけれど、時々意図しない場所で聴く機会があって、そんな時大抵は「あ〜、、こんなだったのか〜」と残念な気持ちになる場合が多い。でも「Sunday Clothes」だけは「あれ?こんなに自然に聴ける感じだったのか?」とよい意味で意外な印象だった。その理由の一つがZAKさんのマスタリングに寄るのは間違いない。あとは無理してでも、歌を後入れではなく同時録音した事だろうな。でも曲やポコペンさんの書いた歌詞も含めて好きな作品なのだ。穏やかな明るさと、寂しさと、奇妙な歪みと、小さな日常感が同居している。

以降4月のリリースに向けて慌ただしい日々になった。「Sunday Clothes」のジャケットのイラストを描いて、デザインを前述した山田さんにお願いした。そして山田さんは昨年提案してくれた「ノアラとヨッコラ」の出版を社内で熱心にプレゼンして「Sunday Clothes」と同時に出版してはどうかと話を決めてくれた。出版社の編集の方と三者で打ち合わせを繰り返しながら、原稿の推敲をした。編集の方は熱心にアドバイスしてくれて、僕は初めての事なので戸惑いつつ1ヶ月くらいかかって推敲を終えた。最初に書いた時よりずっと時間がかかった。でも今になって云うけれど、実はこの推敲作業はあまりうまく出来なかったと思って後々反省した。なんだか細かい言い回しが気になって細々修正した結果、最初の時の流れと云うか言葉のリズムが失われて読んだ印象がのっぺりしてしまった気がする。こう云う作業ってやはり経験がないとうまく出来ないのだなと知った。とは云え、この時点では最善策と思いつつ作業は進む。

アルバムの発売日を決めて、ディストリビューターの方とも相談を進めているのでなんとしても間に合わせなくてはならない。発売ライブはマンダラ-2で4月16日に決定。間に合わせる為に逆算して「Sunday Clothes」ジャケットと「ノアラとヨッコラ」の入稿締切日が決まり、本当に滑り込みのタイミングで入稿が済んだ。山田さんには本当に何から何までお世話になって感謝している。印刷所の方にもディストリビューターの方にもサンプル盤を格安で手配してくださった方にも、その他たくさんの方達にもお世話になった。おかげさまで、アルバムも本も無事に発売されて、その後も関西方面へライブに行ったり慌ただしく過ぎて行った。

実はその頃並行して滝本晃司さんが主宰するジャンタルマンタルと云うバンドに参加していた。少しずつゆっくりとアルバムを制作、完成して夏に発売された。アルバムには参加していないけど、ライブではドラムの楠さんが参加していた。アルバムジャケットのデザインはやはり山田さんが担当した。結局アルバム1枚作ってなんとなく活動はなくなってしまったけど、録音の為に度々通った滝本さんが管理していた八王子のプライベートスタジオが懐かしい。

秋以降もsakanaはマンダラ-2、leteでのライブを繰り返し、年末はleteで個展を行った。この個展の直前に思い出深いのは、流行していたノロウイルスに感染してしまい、搬入前々日に1日中寝込んでしまった事。しかし準備を遅らせるわけには行かず、ヨロヨロしながら準備を終えて搬入した。搬入日には普段より3kgくらい体重が落ちていたと思う。でもこの時の個展は充実した内容だった気がする。準備していてとても楽しかったから。そんな感じで慌ただしく忙しい2006年が過ぎて行った。


























2007年も月光荘での個展で始まった。前述したように月光荘での個展が恒例だったのはこの時まで。名残惜しかったけどビル取り壊しじゃ仕方ないよね。

2月25日、思い出深いライブがマンダラ-2であった。かねてから音源を愛聴していた素晴らしいSSWの中村まりさんとsakanaのツーマンライブ。レナード・コーエンやボブ・ディランの曲を一緒に演奏して楽しい日になった。

5月に京都のshin-biと云う場所で個展をさせてもらった。最終日に合わせてsakanaのライブもあった。前述したラブジョイのbikkeさんにとてもお世話になった。石橋さんやその他の方達にもいろいろ。

以降、6月にはマンダラ-2で再び滝本晃司さんと、10月には大阪の♭フラミンゴ、ムジカジャポニカに行き、11月は名古屋で2days、12月はマンダラ-2でワンマン2days、大野由美子さん、楠均さんと一緒に演奏した。

年末は恒例のleteでの個展を行って2007年が過ぎて行く。

2008年は大阪〜名古屋のツアーで始まった。どちらも割礼と一緒だった。

「ちょっと話題が逸れるけど、このbiographyは初期のも含めて、アルバム制作の話題を軸にして、その前後のライブや出来事を掻い摘んで書き進めている為、アルバム制作がない時期は話が大雑把に早く進みます。淡々とライブ活動を続けている間にもいろんな場所でたくさんの人達にお世話になっているのですが、全てを書くのは難しいので書いていません」

4月には初めて岡山でsakanaのライブと個展をさせてもらった。城下公会堂。以降、時々お世話になる大切な場所になった。

その後も月に2~3回のペースでライブが続く。確か5月に高円寺のロフトで中村まりさんと再び。この時もsakanaは大野さん、楠さんと演奏した。この時お2人に「そろそろsakanaの次のアルバムの録音に入ろうと思っているので、またよろしくお願いします」みたいな話をした。

この頃、次のアルバム制作に備えて録音機材を一新した。それまで使っていたMTRのA-DATは使い過ぎて走行距離が製品限界を超えていた。2度メーカーに修理に出していたけど、すでにメーカーの修理対応が終了していた。アナログのミキサーとマイクプリアンプ、コンプレッサー等のアナログアウトボードは業者にそれなりの金で引き取ってもらった。その金で簡易なDAW環境を整えた。「モノ」としてはMacBookとオーディオインターフェイスの箱だけで済んでしまうので、なんだか身軽で便利。音作りはアウトボードは使わず全てプラグインで行う事にした。そんなわけで、この頃は新たな機材で試し録りと思いながら、作った曲を次から次へと録音していた。「ルピナス」「ジニア」はこの時期に出来た。その他にもボツになった曲が30曲くらいあったと思う。ポコペンさんは「アンジェリケ」「バウンティフリー」「夕暮れ時」などどれも良い曲を作っていた。パソコンで録音作業をするのもだいぶ慣れて来たので、そろそろ録音を始めようと具体的に話し合ったのは2008年末だった。

年末はleteでの個展と共に思い出深いライブがあった。leteの町野さんが「レテのコンサート」と題して広い会場でイベントを企画した。場所は武蔵野市民文化会館小ホール。町野さんからステージに設置する大きな絵を注文されていた。「樹の絵がいい」と云われて描いた大きな絵は個展にも展示してその後、町野さんに預けてコンサート会場に飾られた。現在はleteの壁に貼られている。企画側はいろいろ大変だったと思うけど、よいイベントだった。中村まりさん、塚本功さん、石井マサユキさんと武田かおりさんのTICA、滝本晃司さん、、sakanaと馴染み深い方々と一緒だった。12月21日、奇妙なほど暖かい1日だった。21時過ぎには全てが終了して早々と帰宅した。春のように暖かな夜はとても静かだった。この年末の個展はよい内容だったと思う。それまでより少しだけマシな絵が描けたのかも知れないと思った。

2009年、再びleteで録音させてほしいと町野さんにお願いして、leteにパソコンとオーディオインターフェースを持ち込んで営業時間外に作業をさせてもらった。しかし間も無くこの録音はうまく進まなくなって頓挫してしまう。録った音源を後から聴いてみると、アレンジなどを考え直さなければならない曲が多い事が判った。ポコペンさんは歌詞も考え直したいと云う。なので町野さんにお詫びして機材を引き上げ、録音作業を始めるには時期尚早だったと思い、またしばらくライブを重ねてアレンジを推敲する事になった。

2009年もライブは月に2~3回ペースで行い、関西でのライブもあった。ライブの度にアレンジを変えてみたり、ポコペンさんは歌詞を書き直したり、相変わらずの試行錯誤を繰り返していた。あ、あと1989年〜1991年にナツメグと云うレーベルからリリースした4枚のアルバムを纏めて4枚組のセットとして発売した。各アルバムはリマスターして音は随分今時っぽい?音になっている。この話はナツメグのオーナーであり代々木チョコレートシティと云うライブハウスのオーナーであった中村さんから提案された。リマスターとジャケットを一新出来る事が自分達にとっては嬉しい提案だったので、sakana recordsと云うレーベル名を貸す約束をして実現した。リリース直後に京都で発売ライブをした覚えがある。

2009年末も恒例のleteでの個展をした。この時の展示はなんとなく迷いのあるスッキリしないものだった。2009年はあまり成果のあがらない年だったと思う。

2010年。ポコペンさんはこの頃からソロでの弾き語りライブを定期的に行うようになった。曲もsakanaとは別でソロ用に作って行くようになる。最初の2~3回は僕も珍しくて聴きに行ったけど、その後はあえて聴かないようにしていた。理由はうまく説明出来ないんだけど、あまりポコペンさんのソロについて考えずに、今まで通りsakanaを続けたかったのだと思う。でもポコペンさんがソロ活動をするのは賛成だった。僕が絵を描いているようにポコペンさんもsakanaとは別で個人的に発信すればよいのに、と常々思っていたから。

僕個人としても新たな試みがあった。leteの町野さんの提案で、春からleteで絵画教室を行ってみる事にした。人に何か教えるなんて柄じゃないし、僕はただの高卒で絵を専門的に学んだ経験はない。だから絵を教えるなんて無理だと思ったけど、今の年齢(当時47歳)で新しい事を始める機会が得られるのはありがたいと思ってやる事にした。あと正直云えば困窮していたので、バイト感覚もあった。しかし受講者が集まるのかしら?と思ったものの、なんとか定員になって教室が始まった。受講者の中に素晴らしい音楽家の中村まりさん、笹倉慎介さん、がいてなんだか恐縮でやり難かったけど、毎回頑張って準備をして手探り状態で教室を進めた。ここでの笹倉さんとの出会いが、sakanaの次のアルバム「Campolano」の制作に入るきっかけになった。笹倉さんは埼玉の入間市でguzuriと云う自宅を改造して作ったスタジオを経営していた。sakanaのアルバム録音を頼めないか相談して、良心的な条件で快諾してくれた。

と云うわけで、6月末から笹倉さんのスタジオguzuriでアルバム「Campolano」の制作が始まった。ベーシックはポコペンさんと2人だけで録音する曲、ドラムの楠さんを交えて3人で録音する曲、楠さん、大野さんを交えて4人で演奏する曲、を順番に録って行った。確か3日間だったと思うけど、最終日は日夜ぶっ通しで20時間くらい作業してもらった。7月に入って、歌入れをguzuriで2日間行った。笹倉さんは終始丁寧に録音作業をしてくれた。その後録音データを全て持ち帰って家でギターのオーバーダビングや修正をした。ポコペンさんも歌詞を書き直して、歌を数曲録り直した。「雨音」と云う曲で中村まりさんにコーラスを入れてもらった。その他いろいろ試行錯誤の末、音入れ作業が終わったのは10月頃だった。特に難航した曲は「アンジェリケ」「星を見上げながら」「チャーリーブルーアイ」「雨音」

それから1ヶ月くらいかけてミキシングをした。DAW環境で初めてのミックス作業は悩み多かった。アナログミキサーとアウトボードでは考えられないほど音作りの選択肢が増えて、編集も自在になるけれど、それを使いこなすには相応の経験が要ると思う。1曲だけ「アルモニコ」と云う曲をパソコン作業ならではの編集力を使ってミキシングした。それが効果的だったかどうかは判らない。ともかくアルバム全体として素っ気ないほど質感に乏しい音作りになった。プラグインもデフォルトで入っているものしか使っていないので気の利いたエフェクトは何も施されていない。今思えば1~2個でいいからWAVESのプラグインを入れて使えばよかったなと思う。でも歌が聴き易いアルバムになったと思う。パソコンミックスで最も「やり易くなったな」と実感したのはボーカルの音作りだった。

年が明けて2011年。アルバム「Campolano」の発売日は2月10日に決まった。ディストリビューターの方と相談しながら新譜情報の資料を作ったり、ジャケットの制作をしたり慌ただしく過ごす。今回もデザインは山田さんにお願いしたかったけど予算がなくて自分でやる事にした。でも印刷の事で山田さんにいろいろアドバイスを求めて助けてもらった。先行発売ライブはマンダラ-2で1月29日30日の2days。29日は大野さん、楠さんと4人でアルバムの曲を全て演奏した。30日は同じ曲目を2人だけで演奏した。個人的にはアルバムと全く同じアレンジの演奏を心がけた、少し間違えたけど大体出来た気がする。この2日間の演奏はポコペンさんの調子が良く、歌が伸びやかだった。

アルバム発売後も新宿タワーレコードでインストアライブをしたり、京都メトロで発売ライブをしたり、慌ただしく過ごす。京都ではbikkeさんふちがみさんのデュオJBが共演してくれた。

3月11日、東北地方太平洋沖地震。あの日の異様な静けさ、空の色、夕方以降の混乱、全てが忘れられない。翌12日はマンダラ-2でsakanaはライブの予定だった。対バンは鎌田ひろゆきさん。でもマンダラ-2から連絡があって中止と云うか延期になった。ライブの為の準備をしていたので、なんだかやりきれない気持ちになったけど、世の中はそれどころじゃなかった。SNSは原発事故の情報が溢れていた。何が本当で何がデタラメなのか見当がつかない。この日以降いろんなことが変わったと感じている人はたくさんいると思う。

とは云えsakanaはそれまでと同じように活動を続けるだけだった。出したばかりのアルバムを少しでも知ってもらおうと月3~4回のペースでライブを続けていた。アルバムは思ったようには売れなかったけど、ゆっくり時間をかけて売って行くつもりだった。

アルバム「Campolano」もやはり「こうすればよかった、もっとこうしたかった」と云う気持ちをたくさん残した。でもsakanaはこの後、終了するまでアルバムは作らなかったのでラストアルバムとなった。このアルバムも後々までライブで繰り返し演奏し続ける曲を多く収録したアルバムになった。「バウンティフリー」「ルピナス」「ジニア」「星を見上げながら」「雨音」等々を試行錯誤を続けながら演奏した。そして「Blind Moon」や「Sky」と同様に「バウンティフリー」「ルピナス」「ジニア」のベストな演奏は2018年のライブだと思う。若い頃はとにかく新しい作品を作る事が最優先だった。でもある時以降、すでに録音リリースした楽曲の「本当の姿」?を探る事にやり甲斐を感じるようになったのかも知れない。とは云え以降も少しずつ新しい曲を作って行くのだけど。


























2011年10月16日マンダラ-2で思い出深いライブ。ゲストに勝井祐二さんを迎えて久しぶりに3人で演奏した。「サムバディ」「惑星」「ロンリーメロディ」など以前何度も一緒に演奏した曲や、タイトルを忘れてしまったけど当時短い期間しか演奏しなかった新曲を何曲か演奏した。

11月下旬に町田のキャトルセゾン町田店で小さなイラストを多数展示させてもらう事になった。以降現在まで毎年お世話になっている。

12月には恒例のleteで展示をさせてもらう。この時は中庭桂子さんと云う写真家の方と2人展をした。日にちを忘れてしまったけど確か12月下旬に仙台でsakanaのライブをさせてもらった。ご一緒したのはyumboを主宰する澁谷さんソロと浜田山さん。とても寒い日だった。

年が明けて、2012年1月12日、マンダラ-2で思い出深いライブ。ゲストにバイオリンの勝井祐二さんとドラムの中村達也さんを迎えて4人で演奏した。曲目はいつもsakanaが演奏している曲だったけど、どうなるのか全然予想のつかないライブだった。

3月4日マンダラ-2でふちがみとふなとのお2人と共演した。お2人の演奏は本当に素晴らしく、数曲セッションもして楽しい日だった。

6月23日、初めてsakanaは九州でライブをした。ノントロッポのボギーさんが呼んでくれて、勝井祐二さんと3人で福岡で演奏させてもらった(トリはノントロッポ)。翌24日は大分で演奏した(トリはボギーさんとベーシスト坂上さんのデュオ)。両日ともボギーさん達の演奏は素晴らしく、sakanaも楽しく演奏させてもらった。翌年の夏にもボギーさんは福岡にsakanaを呼んでくれた。その時はポコペンさんと2人で演奏した。

sakanaの演奏はいつも新たなアレンジを試したり、ポコペンさんの歌詞が推敲されたり、試行錯誤を繰り返して続いている。ポコペンさんはソロの活動も徐々に軌道に乗り始めて、定期的なペースでいろんな場所、共演者とライブを重ねている。僕はleteでの絵画教室を細々ながら続けていた。この教室は2013年まで続けたけど、結局自分は教えるの向いてないんだなと痛感してやめた。自分が教わった事がないので教わる人がどうしたら分かり易いのか見当がつかないのだと思った。

この年の個展は春頃、つくばの千年一日珈琲焙煎所だった。sakanaのライブもさせてもらった。

翌年、2013年2月9日、マンダラ-2でベース(シンセ)の大野由美子さんとドラムのPOP鈴木君を迎えて4人で演奏した。数日前にスタジオでリハーサルをした時、久しぶりに鈴木君に会ったポコペンさんは以前の確執を思い出して泣いていた。鈴木君は笑っていた。和解出来てよかったなと思う。

4月に吉祥寺のキチムで個展をさせてもらう。ライブも企画する事になってあえてsakanaではなく、マニュエル・ビアンヴニュさん+石井マサユキさん、石井マサユキさん+西脇一弘、ポコペンさんソロ、のスリーマンで企画した。PAを笹倉慎介さんにお願いした。おかげさまで楽しいイベントになった。

4月27日、28日、大阪ムジカジャポニカ、名古屋K.Dハポンで演奏した。くじらの杉林恭雄さんとツーマンでツアーさせてもらった。楽しい2日間。ライブで顔馴染みの方が企画してくれて何から何までお世話になった。

変わらないペースでsakanaのライブ、ポコペンさんは並行してソロライブ、僕は個展を行いながら2013年が過ぎて行く。

2014年2月、ポコペンさんがソロ活動でコツコツと作って来た曲がアルバム分になったので、満を持してソロアルバムの制作に入った。ベーシックとなる弾き語りはleteで公開録音というかたちで行われた。ポコペンさんは以前から常々レコーディング作業が苦手な理由として、聴衆がいないのに気持ちを入れて歌うのが難しいと云っていたので、その解決策として考えられたらしい。僕はこのアルバムの制作には一切関わっていない。sakanaとソロ活動をハッキリと分けて、滲ませたくないとのポコペンさんの意向だったし、僕もそうした方がよいと思った。

制作に参加した音楽家の方々は、ポコペンさんが技術も感覚も信頼してお願いした5人。エマーソン北村さん、mama milk!の生駒裕子さんと清水恒輔さん、菅沼雄太さん、エンジニアは庄司光宏さん。制作には半年以上かかって完成したのは10月。僕は頼まれてジャケットにイラストを描いた。発売は2014年12月30日。発売のライブツアーは翌2015年3月に行われた。

2015年3月16日。渋谷クラブクアトロでポコペンさんの約20年ぶりのソロアルバム「tingatinaga song」の発売ライブ。前半はポコペンさん独りでの弾き語り、中盤から徐々にゲストの方々が加わって後半は、北村さん、生駒さんと清水さん、菅沼さん、5人全員が揃っての演奏。本当に素晴らしいライブだった。無論演奏そのものも素晴らしいのだけど、ポコペンさんがコツコツと丁寧に熟考を重ねて作りあげた楽曲の放つ輝きに魅入った。もうこれは自分には全く敵わない(叶わない)音楽だと思う。音楽も絵も、敵わない相手は身近にもそうでないところにも、たくさんいるので僕はそう云う事を悔しいとか落ち込んだりはしない。まして長年活動を共にして来たポコペンさんがこんな音楽を作りあげたと思うと誇らしかった。でも同時に今後もsakanaを続けて果たして意味があるのか?とも思った。たぶんsakanaはこれを超える音楽を作るのは無理だろうと。それは嫌だとか残念だとか云う感情が届かないくらいの胸の奥で捉えた、理解より深い「感触」だった。

こう云う事を書くと「sakanaが終了した原因はそう云う事か」と思う人がいるのかも知れない。そう思いたいなら勝手に思えばいいのだけど、でもそれはきっと見当違い。sakanaを続けるもやめるも、僕がひとりで決める事ではないし。物事を「清濁併せ持つ」とか「明と暗」とか表裏とか勝ち負けとか、相反するふたつの要素で立体的に捉えようとするのはあまりに単純過ぎると思う。清と濁の間には無数の細分化があって、その間で悪あがきや納得を繰り返しながら、どこにも着地出来ずに漂っている人がたくさん居るんじゃないかと思う。風を追い続けて、帰り道を見失った子供みたいに。

ちょっと話が逸れたけど、ともかくポコペンさんの新しいソロアルバムは僕にとって問答無用に素晴らしい作品だった。

2015年もsakanaのライブは月に3~4回のペース、年に2~3曲だったけど新しい曲も作った。話の順番が前後するけど、個展は吉祥寺キチムで1月に行った。この時のイベント出演はTICAとsakana、両方にエマーソン北村さんが参加してくれた。おかげさまで楽しい夜になった。

2016年。この頃以降はfacebook等に全てのライブや展示の記録が残っているのであまり書く事はない。同じペースでライブが続く。ポコペンさんのソロライブが増えたのでsakanaとしてのライブは若干減った。その代わりと云うつもりはないけど、僕の個展も回数が増えて年に4~5回のペースになる。個展は年に5回までが限度。それ以上は準備が追いつかないので無理だと思う。

2017年も同じペース。でもライブ毎にアレンジを更新して、新しい曲も少しずつだけど増える。ポコペンさん作の「緑のベル」「モナ」はとてもよい曲。ここ数年来アレンジ修正を繰り返して来た「コーピアスシャワー」のアレンジがようやくいい感じになって来た。僕はオーソドックスなコード進行を使ってマイナーのワルツを作った。でも地味過ぎてそのうちボツになるかも知れない。ポコペンさんはソロ活動、僕は個展の準備に忙しく過ごす。

2018年も変わらずのペース。新たに作った曲「Tea」がライブ毎に修正をしていい感じになって来た。ポコペンさんのソロ活動は順調で新曲も増えて、次のソロアルバムの制作も考えているようだ。僕の個展も変わらずのペース。sakanaは相変わらずライブ毎にアレンジの見直しを繰り返し、この年のライブ演奏は過去35年来、最もよい(マシな?)演奏をしていると思う。そうでなければ35年続くはずはない。sakanaの最後のライブは12月28日下北沢lete。

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今より随分のんびりした世の中だった1983年の秋、高校の同級生2人を「一緒にバンドやろうぜ」と誘ってsakanaを始めた。云い出しっぺの僕が、sakanaを結成した(作った)つもりになっていたのはせいぜい最初の1~2年くらいだった。その後のsakanaは、まるで云う事を聞いてくれない、気紛れで、天の邪鬼で手に負えないような、そのくせ引っ込み思案で大人しい、友達だった。気取った云い方に思えるかも知れないけど、実感としてそうとしか云いようがない。

そんな友達と僕は自分が聴いてみたい音楽を一緒に作りたかった。35年間本当にただそれだけだった。でも数年前のある時からsakanaはフッと何処かへ行ってしまって、もう 僕を訪ねて来なくなった。でもまたひょっこり現れて「よう、今度はなに演る?」って云ってくる気がして待っていたんだけど、もう来ないんだなって分かったから2018年12月でsakanaをやめた。

sakanaは、
僕の人生の中のひとつの出来事だった。
思いがけず続く、長い長い瞬間だった。
自分が聴いてみたい音楽は作れたのかって?
いつだって聴いてみたい音楽は、
まだ出会っていない音楽だよね。




2019年7月18日木曜日

sakana biography 1999~2004

ようやくbiographyを書いてみようと思う。

1999年夏。
'97年頃からバイオリンの勝井祐二さん、ドラムのPOP鈴木君と一緒にバンド編成で演奏したり、2人だけで演奏したりを断続的に繰り返していたけれど、99年には4人編成のバンドとして殆どの活動を共にするようになった。ライブの度にバンドで演奏するお馴染みの曲が増えて未録音の新曲がアルバム分出来たので、新作アルバムを作りたいねと話していたところへこんな話が来た。

この頃のsakanaは時々海外から招聘された音楽家の公演の前座を務める機会があった。そしてその公演は大抵田中さんという人物が企画制作したものだった。田中さんは勝井さんと親しかった所為もあって時々sakanaに声をかけてくれた。大柄で髭面長髪、いつも黒い服を着て見るからに怪しげな貫禄を放つ人だった。自分より年下だと知った時はちょっとショックだったけど、貫禄のない僕はいつもヘコヘコしていた。そんな田中さんが徳間ジャパン内の小さなレーベルからアルバムを出さないかと誘いを持って来てくれた。小さなレーベルとは云え、一応レコード会社なので相応の予算も出て、仲介を田中さんが請け負い、プロデュースを勝井さんに、と云う話。勝井さんはメンバーでもあるのでその方が制作はスムーズに進むでしょうとの事だった。そんなわけで勝井さん仕切りでアルバム「Welcome」の制作に入ったのが1999年7月だった。

予算をもらってアルバム制作なんてsakanaは後にも先にもこの時限りだった。予算の運用は基本的にプロデュース担当の勝井さん。「音が良いのとオーナーでありエンジニアである近藤さんをよく知っているから」と云う理由で、スタジオは吉祥寺のGOK soundにしようと云われる。この辺の事はよく判らないので云われるまま決まって行く。しかし僕は「My Dear」を録音してくれた益子さんにエンジニアを頼んで、同じように阿佐ヶ谷のアーススタジオで録音したいとも頼んでみた。益子さんやアーススタジオも元はと云えば勝井さんが紹介してくれたから、その希望も取り入れてくれて半分の曲をGOK soundで近藤さんに録音とミックスを、残り半分はアーススタジオで益子さんに、と云う事になった。で、まずは7月にGOK soundで3日間ベーシックの録音する事に。GOK soundは部屋の鳴りとアナログ録音に拘って近藤さんが殆ど手作りで構築したスタジオ。往年のロック名盤みたいなサウンドが録れる。果たしてsakanaにそんなサウンドが必要なのか?とは当時も思ったのだけど、4人編成のバンドで普段通りのライブ演奏を歌以外は一発録音で、と勝井さんは主張して、GOKは最善のスタジオだという事だった。そしてその特性が最も活かされるのはなんと云ってもドラム。鈴木君は終始ご機嫌で演奏していた。

しかしこの初めての恵まれた状況に僕はあまり積極的になれなかった。そんなに立派なサウンドじゃなくていいのに、迫力なんかなくていいのに、と思う。一発録音についてもあまり気が進まなかった。演奏力があれば一発録音が最善なのは僕も判っているけど、演奏力がないならむしろスタジオでしか出来ない多重録音の利点を使う方が良いと思っていた。僕以外の3人は皆GOKでのサウンドや方法に満足だったので、簡単に云えば僕だけがごねていたのだが、勝井さんは丸く収まるようアーススタジオでの作業もセッティングしてくれたのだった。

と云うわけでGOKで録音したのは当時ライブで頻繁に演奏していた「レピア」「ロンリーメロディ」「トテリングウェイ」「ブルー」など。この中で僕の作った曲は「ブルー」だけ。つまり僕が作った曲の殆どはアーススタジオで録音した。「惑星」「リムジン」etc,

そして「Welcome」の制作は9月末にマスタリングまで無事終了した。勝井さんも近藤さんも益子さんもとても熱心に最善を尽くしてくれたし、ポコペンさん鈴木君も納得出来る仕上がりになった。僕も最善を尽くしたつもりだったけど、このアルバムは好きになれないと思った。でも状況や人の所為だとは思っていない。自分の調子が良くなかったのだと思う。一丁前にスランプだったのかも知れない。曲は毎日の様に作っているのだけど、良いと思えるものがちっとも出来なかった。「Welcome」に収録した自分の曲で良いなと思えたのは前述した「ブルー」と「惑星」だけで、他の曲はその場しのぎに用意したような曲だった。それに比べてポコペンさんは良い曲を提供していた。「レピア」「ロンリーメロディ」「トテリングウェイ」「チョーキータウン」「サムバディ」が「Welcome」に収録されたポコペンさんの作った曲。

そんなわけで99年秋、ホントならアルバム制作を終えてホッとしたいところだけど、まるで達成感を持てず悶々としていた僕は、もっと納得出来るアルバムを作らないと気が済まない状態だった。予算や状況など当てにせず、自力でやってみようと思い立ち、2年のローンを組んで必要最小限の録音機材を買い込んで自宅で録音作業を始めたのは、「Welcome」が完成して1ヶ月も経っていない99年10月だった。

今でこそ宅録で作品を作るのは当たり前だけど、宅録でCDにしてもOKな音質の録音が出来るようになったのは、90年代に登場したデジタルMTRが普及した以降。当時一般的に広まったのはA-DATと云うビデオテープに録音する4chレコーダー。これを中古で2台とアナログの12chミキサーとマイクを2本購入して当時住んでいた狭いアパートの台所で自分で録音ボタンを押しながら、作り始めたのが次のアルバム「Blind Moon」

先のアルバム「Welcome」の反動で、アコースティックギターと歌だけで簡素な曲を録音しようと決めていた。そして今まで作ってきた作品よりも単純で分かり易い作品を作りたかった。素朴で親しみ易いものにしたかった。この時点まで僕はアコースティックギターを持っていなかったけど、epiphoneのアコースティックギターを楽器店に勤める知り合いから譲ってもらった。もうひとつepiphoneのフルアコのギターをピックギターの代わりとして購入した。思えばこの時期は一世一代の散財をしたのだな。

動機はどうであれ、やる気が充実してると曲が出来る。「Blind Moon」「Miss Mahogany Brown」「知識の樹」「真昼間の見知らぬトーン」「遠くへ」が1週間くらいで出来た。すでに4人編成で時々ライブで演奏していた「Johnny Moon」もギターと歌だけで収録する事にした。ポコペンさんが用意したのは「Sky」「19」「Only One Song」「君」「Guys be Gold」

予約したスタジオで時間に追われて録音するのではないし、作っている音源を果たしてどうやってリリースするのかも決まっていない状況なので、スケジュールに左右されずに好きなだけ試行錯誤とやり直しを繰り返した為に制作には随分時間がかかった。曲作り面、アレンジ面、録音面、演奏面、を全部平行して悩んでいるから大変。

機材を買って最初に録音したのは「Blind Moon」と「遠くへ」だった。「Blind Moon」は曲が出来た翌日にどんな感じかなとギター2本を1人で試し録りした。それに風呂場にマイクを立ててポコペンさんに仮歌を入れてもらって仮ミックスしたものを聴いてみた。宅録で果たして作品が作れるのか?を早く知りたかったわけ。もう散財しちゃったから後戻り出来ないんだけどね。スタジオで録音したような立派なサウンドではないけど、自分的には十分な手応えを感じて、このやり方でアルバムを完成させようと云う気持ちは固まったのだった。機材の使い方を覚えながら、マイクってどの辺に立てればいいのか?などいちいち悩みながら録音、やり直し、録音、やり直しを延々と繰り返して行く。

とは云え、4人編成のsakanaのライブは月に2~3回ペースで続いているし、生活の為の仕事もしているわけだから、四六時中録音作業出来るわけじゃない。アルバム制作に没頭してる間って、次に録音する曲の演奏やアレンジの事ばかり考えているから、次に録音出来る時間が待ち遠しくて仕方がない。そしてようやく作業出来る日が来て1日頑張ったのに結局NG続きで成果がなかったりするとガックリ来る。でもそれが次は失敗しない為の準備に繋がるのでその次は成果が上がる。そんな繰り返しを続けて年末頃にようやく楽器類は全て録音が済んだ。

歌は仮歌が入っていたけど、ポコペンさんは全てやり直したいとの希望なので、2000年、年明けから歌入れ作業を続けた。順調に録れたものもあったけど、歌詞の推敲も伴って、やはり試行錯誤する曲が多い。「19」は2度OKが出たにも関わらず、やっぱりダメと云って3度目の録音でようやくホントにOKになった。「Miss Mahogany Brown」も1度OKが出て、僕はそのテイクがとても気に入っていたのでそのボーカルに合わせて拙いオルガンをオーバーダビングして、その感じが良いな〜と思っていたけど、ポコペンさんはどうしても気に入らないと云って、更に録り直して、収録されたテイクになった。結局採用の歌にオルガンは合わなくなったので、シンセサイザーでリバーブ音に埋もれるようなノイズを重ねて録音した。それはそれで面白いと思ったけどでも、僕は今でも一つ前のテイクの方が良かったと思っている。まあそんな風にしてどの曲も一進一退を繰り返しながら全ての音入れが終わったのは3月末だった。

1曲だけ2人共、どうにも納得の行かない曲があった。「Blind Moon」。曲は気に入っていて、アルバムのタイトルソングにしようとも決めていたけど、ポコペンさんはどうしても思うように歌えないと云い、僕は間奏のギターに明らかに音を外したミストーンと音を出しそこなったミスタッチがあって嫌だった。もちろんボーカルもギターも、他のテイクを山ほど録って、ミスの無いテイクもあったけど、なぜか最初に録ったテイクの方が「よい感じ」に思ってしまう。で、結局ボーカルは風呂場で録った仮歌、ギターも機材を買った直後に取り敢えず試し録りしたテイクを採用する事になった。残念だったけど、やりたいだけやり直した結果なのでまあ納得した。

そして4月からミキシング作業。初めて自分でミックスするのでこれまた大変。6畳1間のボロアパートの自室に引き籠り、A-DATとアナログミキサーの前に座り込んで延々と作業を続ける。1曲につき少なくて10テイク、多い曲は20テイクくらいを作った。今のようにDAW環境が当たり前になるちょっと前の時期。A-DATは一応デジタルMTRだけど、ミキシングは全てアナログ手作業なのでテイクを重ねる度に全ての設定を最初からやり直す。もう全ての曲の全ての間合いやニュアンスまでを覚えてしまうくらいに聴き続けて、5月にようやく全てのミックス作業が終わり、曲順を何通りも考えて、これまた何通りものCD-Rを焼いて聴き比べて、曲順も決まって、完成したのは2000年6月末。作り始めてから9ヶ月も経っていた。

話が逸れるけどその頃、4人バンドとしてのsakanaでとても思い出深いライブが5月に2回あった。5/16に吉祥寺のスターパインズカフェ、5/21に京都の西部講堂で、Slapp Happy初来日公演の前座を務めた。スラップハッピーやヘンリーカウは18歳〜20歳くらいの頃、LPが白く粉を吹くくらい繰り返し聴いた。だから緊張を通り越して嬉しかった。スラップハッピーの演奏は思っていた以上の素晴らしさだった。歌い始めた声がレコードで聴いていたのと同じ歌声で、そりゃ感激するよね。そしてこの初来日公演を企画して前座に誘ってくれたのは前述した田中さん、京都公演を企画したのは、やはり勝井さんの紹介で知り合った石橋さんと云う人物。この時以外にも、sakanaが京都で演奏する機会を何度も作ってくれた。石橋さんもなんとも云えない貫禄がある人で、僕はやっぱりいつもヘコヘコしていた。あ、石橋さんは僕より年上。しかしスラップハッピーとライブが出来る事に自分と同じように感激していたのは勝井さんだけだったな。ポコペンさんと鈴木君はスラップハッピーを殆ど知らなかったらしい。

そんな感じでアルバム制作以外もいろいろと慌ただしく過ごしつつ2000年後半になった。アルバム「Blind Moon」のリリースは11月頃に決まった。ジャケットのイラストを何枚も描いたりしながら、4人でのライブも10日に1回くらいのペースで続いていた。あの頃は名古屋や関西方面で演奏する機会も多かった。その理由は勝井さんがメンバーだった事が大きい。多方面で活躍して豊富な人脈があるので、勝井さんを通してsakanaが色んなイベントに誘ってもらう機会が多かった。様々な音楽家とも勝井さんを介して知り合えた。

秋頃、自分にとっては印象的なライブが渋谷クロコダイルであった。誰が主催だったか思い出せないけど、メインアクトがラブレターズのイベントだった。ラブレターズはフールズの名ギタリスト川田良さんが伊藤耕さんが服役中でフールズが活動出来ない間、率いていた別バンド。前のめりで情け容赦ないスピード感抜群のギターが炸裂していて格好良かった。で、そんな大御所の前座なので、楽屋は良さん達が使うので入れず、勝井さんと近所のファミレスに行った。当然緊張していたのだと思う。どうもお腹が痛くなって「すみません、ちょっとトイレ、」と云ってしばらくして落ち着いて戻ってみると勝井さんが「開演前にグルーヴが来ましたか?フッフッフ、、」と嬉しそうに笑っている。クロコダイルに戻って演奏を始める。何曲目だったか忘れたけどイントロを僕から弾き始める曲があった。鈴木君のフィルに続いて皆んなが入ってくる。なぜかポコペンさんがいつもと違うアレンジのフレーズを弾いている?いや、違わないのだけど、頭が半拍遅れて入っているのだ。鈴木君、勝井さんと顔を見合わせる、ポコペンさんは構わず歌い始め、そのまま行く方針だ。この状態で即座に対応出来るのはやはりドラマー鈴木君。サビから半拍ズラして表裏を入れ替える。しかし僕はそれに対応出来ず最後まで自分の弾き始めた状態で通すしかなかった。勝井さんはいつも即興的なアプローチなのでどっちつかずに演奏していた。聴いている人はヘンな曲だな〜くらいしか思わなかったと思うけど、ただでさえ緊張していた僕は気が気ではなかった。終わった後「いや〜斬新なアレンジだったね!」と勝井さんがまたしても嬉しそうに笑っている。「なんか裏表が分からなくなっちゃってね〜」とポコペンさん。こう云う事は全然珍しくはなくて度々あったんだけど、個人的に18歳くらいの頃からファンで度々ライブに通っていたフールズの川田良さんと対バンの時の話だから思い出深い。そして、この日は日系アメリカ人SSW鬼木雄二さんが聴きに来ていた。やはり勝井さんの知り合いだった鬼木さんを紹介してもらった。その後、鬼木さんとsakanaは何度か一緒にライブをした。

「Blind Moon」は予定通り11月にリリースされ、ライブに追われながら2000年が終わる。

























ボンヤリした気分で2001年が始まる。新作アルバムを作った後はいつも「ああすればよかった、もっとこうしたかった」と思い、自然と「次はこうしたい」と気持ちが向かう。だからsakanaは毎年少なくとも1枚はアルバムを作って来たし、多い年は3枚リリースした時もあった。「Blind Moon」も他の作品と同じように「うまく出来なかった、次はこうしたい」って思う事がたくさんあった。でも「Welcome」を作って間髪入れずに「Blind Moon」の制作に没頭してなんだかちょっと疲れてしまったのだ。体力的にではなく気持ち的に。それと「もっとこうすればよかった」と云う気持ちを次のアルバム制作ではなく、ライヴ演奏に反映させた方がよいとも思った。(「Blind Moon」に収録された曲は後々まで繰り返し演奏した曲が多い。「Blind Moon」や「Sky」のベスト演奏は2018年のライブだと思っている。最初に録音してから18年も経ってようやく少しマシな演奏が出来るようになった気がした)

とは云え、折角機材も買ったのだから使わなきゃ勿体ないし、と次の録音計画を模索していたのだけど、ポコペンさんはもう宅録でアルバムを作るのは気が進まないと云う。やはりスタジオ作業でちゃんとした人?に録ってもらいたいと云うのだった。そう云われてしまえば仕方がないのでしばらく録音作業はしなくていいかと思う。

一方でライブの演奏もあれこれ悩みが多かった。4人バンドとして活動出来ているのはとても貴重で大切な事だと思う気持ちはあったものの、この時期の自分はもっと簡素で地味な演奏を目標にしたかった。とは云え、アルバム「Blind Moon」の内容のようにギターと歌だけで、ライブ演奏が出来るようになりたかったけど、それを実現するのはとても難しかった(前述したように18年も試行錯誤を続けたのだから)。

バンド編成での演奏はなんとなく煮詰まって、2人で演奏してみたいけど上手く出来ず、次に作りたい作品への意欲も持てず、ライブの予定は変わらずのペースで決まるので、ともかくそれをなんとかこなしている状態だった。それでも少しずつ曲は作っていた。後のアルバムに収録される「ミスティブルー」や「スマイル」はこの頃に出来た曲。ポコペンさんは「ロコモーション」や「ラブシンガー」などを作っていた。活動を維持して行くのが辛い時期だったけど、何がしたいのか?何が出来るのか?を立ち止まって考えなくてはいけない時期だったのだと思う。結局2001年は録音作業をせずに終わった。1年間全く録音しなかったのは89年に「マッチを擦る」を録音して以来12年ぶりだった。それから個人的な事だけど個展を1度も行わない年もかなり久しぶりだった。文字通り立ち止まって途方に暮れていたのだった。

そして2002年春頃。下北沢Queで4人編成sakanaのライブがあった。「welcome」のプロモーションでお世話になった高橋尚人さんの企画だったと思う。対バンは失念。この日の演奏はまあ良くなかった。そして終わった後、もうこの編成で演奏するのは無理だと思った。僕が1人で勝手に思った事だけどどうしてもそうだった。後日勝井さんに電話して「もう一緒に演奏するのは僕は無理なので、抜けてもらえませんか」と相談した。勝井さんは「いいですよ、西脇君がそう思ったなら仕方ないからね。俺が困りますって云うような事じゃないでしょう?」と言葉少なく了承してくれた。そして最後に「一緒に活動したこの4年間、いろいろ面白かったですよ」と云われたのだった。このバイオグラフィの前半も含めて僕は勝井さんに何度もありがとうと云っているけど、この時もやっぱりありがとうございました、としか云いようがなかった。今もずっと感謝している。

そんなわけで以降、ポコペンさんと鈴木君と3人でsakanaは活動して行く。あ、無論勝井さんに電話する前にポコペンさんと鈴木君には相談したけど、2人とも「どうしてもそう思ったなら仕方ない」との事だった。以降、勝井さん経由でのライブの誘いがなくなったので、少し減ったけど月2回くらいのペースでライブを続けて行く。半年に1回くらいは関西方面へ行く。以前に比べてゆっくりになったけど新曲も少しずつ増えて行く。曲のアレンジはほぼライブ毎に変えていた。バンド練習は週1ペースでスタジオに入っていた。そして久しぶりに個展をしようと思い立つ。知り合いが安く借りられる下北沢の貸画廊を紹介してくれたのだった。10月に行う事に決まる。で、この個展で流す為のBGM音源を自分で作ろうと考えた。sakanaのライブで演奏しているのとは別で、その為の曲を用意して7~8月の暑い盛りに部屋に引き籠って録音してみた。使ったのは「Blind Moon」の時に買ったA-DATとアナログミキサー。久しぶりの録音作業はやっぱり難しいけど、この録音は自分にとって録音リハビリみたいな作業だった。「Blind Moon」の時の「分かり易く、親しみ易く」と意識した事の反動で、薄らボンヤリした捉えどころのない曲が並ぶ音源になった。sakanaとは別扱いのつもりだったけどポコペンさんに歌詞を書いて歌ってもらった。それにポコペンさん作の曲を2曲足して、アルバム「Sunny Spot Lane」としてリリースする事になったのは少し先の2003年6月の事。

話を戻して、その時の個展もやはり僕にとってはリハビリ個展みたいなものだった。今にして思えば随分荒っぽい作品が並んでいたと思うけど、あの時ちょっと無理矢理でも個展をした事で、また少しずつ動き出せるようになった気がする。この時新たな出会いがあった。デザイナーの山田さん。現在はフリーランスだけど当時はK2と云うデザイン事務所に勤務していた。初対面だったけど話しかけてくれて「Blind Moon」よく聴いてます、と云ってくれた。いろいろ話してみると古い知り合いを知っていた。ほとらぴからと云うバンドで歌っていた佳村萌さん。女優の佳村さんと云った方が分かり易いのだろうか?sakanaが代々木のチョコレートシティでお世話になっていた頃、ほとらぴからと何度か対バンさせてもらった。ふわふわした佳村さんの歌と、超絶なプログレ演奏のキーボードとギターの3人組だった。山田さんは「この展示の事、佳村さんにお知らせしておきますよ」と云ってくれた。そして後日佳村さんは妙に貫禄のあるおっさんと2人で観に来てくれた。久しぶりですね〜と挨拶をする。「こちらは映画のお仕事でお世話になっている林さん」とおっさんを紹介される。「どうも、林です」と云って名刺を渡された。「はあ、どうも、、」佳村さんは絵を気に入ってくれて、自分も最近絵を描いていて今度個展があるので観に来てください、いつか一緒に展示出来るといいですね、と云って帰った。その後2人展を実現させようと何度か打ち合わせもしたけれど、予算を含めなかなか良い場所が見つからず結局その話は見送りとなった。そんな出来事を後日ポコペンさんに報告した。「でさ、なんか妙に貫禄のあるおっさんが一緒に来てさ〜、緊張しちゃったよ」「なんて云う人?」「名刺もらったんだけど、はやしうみぞうって書いてあったよ」「それ林海象さんじゃないの?」「あ〜、そう読むの?」「、、うん、どんな感じの人だった?」「物静かなあっさりした人だったよ」「相手にされなかっただけじゃない?」と邦画好きのポコペンさんに呆れられた。

そして、3人編成になって1年くらい経った頃、アルバム1枚作れるくらい新しい曲が出来たので録音してみようと云う話になった。ライブをコンスタントに行っていたし、今よりお客さんが集まってくれていたので、当時のsakanaは活動費を貯金していた。ライブギャラから少しずつ貯めていた金が12万くらいあったのでそれでスタジオを借りて3人でベーシックを録音する事にした。「スマイル」「ホームレス・フィービー」「サブウェイ・ルー」など確か7曲を録音した。フルアルバムには足りなかったけど取り敢えず録れる分だけ録った感じ。そのベーシックにギターを重ねたり歌を入れたりは宅録作業。しばらくはその作業に没頭していた。そしてようやく完成が見えて来たので、仮ミックスを作ってポコペンさん、鈴木君に聴いてもらった。鈴木君はOKです〜と鷹揚な返事だったけど、ポコペンさんはこれじゃお話にならないと問答無用のダメ出し。そうか、ホントに??しかしこうなるともうどうにもならないのだ。結局sakana貯金12万も作業に没頭した時間も無駄にして、完成間近だった音源は全てボツになった。あの仮ミックスのDATテープはしばらく保管していたけど結局捨ててしまったな。まあでも本当は「無駄」ではない。この時の自分たちはそうする必要があったのだから、。そんな風に相変わらず歩いたり転んだり伸びたり縮んだりしながら、3人編成で模索を続けて2003年が終わった。

そう云えば2003年はひとつ新たな出来事があった。インターネットが急速に普及しつつあった時期、ようやく自分もパソコンを購入してネット環境を手に入れた。ネットが観れるのもメールも目新しかったけど、パソコンを扱うこと自体が新鮮だった。取り敢えずデザイン作業が自分で出来る様にとイラストレーターとフォトショップの使い方を覚えて、それまで切り貼りの手作業で行っていたレイアウト作業があっと云う間に正確に行えるのが嬉しかった。初めて作ったデザインデータはアルバム「Sunny Spot Lane」のジャケットだった(ヘンテコなデザインだったけど)。使い方を覚える前にやる事を決めてしまって、無理矢理それを行うと使い方ってわりと覚えられる、宅録と同じだな。パソコン初心者なのでキーボードで文字を打つのが凄〜くゆっくりだったけど、メールなどを打っているうちにすぐに慣れた。よっしゃ、こうなったらsakanaのホームページを自分で作ろうかと思い立ち、2004年の年明けにホームページ作成ソフトを手に入れてホームページを作り公開したのが2004年2月だった。その時に下にリンクしたバカみたいに長いbiographyを書いた。長文を打つとますますキーボードに慣れる。まあそんな感じで遅ればせながら自分の日常にもパソコンが現れた。

2004年は銀座月光荘での個展と共に始まった。モノトーンを基調とした大きな作品を壁いっぱいに展示して楽しかった。僕は自分の個展に在廊するのが苦手だけど、この時は自分で店番?するしかなくて1週間ずっと在廊したので随分たくさんの人に会った。足を運んでもらってありがたかった。もう自作のBGMを流す気はなくて、好きなCDを持って行って流していた。確かジョン・ルーリーの「Down By Law」のサントラだったと思う。

3人のsakanaは変わらずのペースでライブを続けていた。試行錯誤も相変わらず。新しい曲達は少しずつ纏まって来た。「ロコモーション」「パナマニアンハット」「ミスティブルー」「サブウェイ・ルー」「ホームレス・フィービー」「サマータイム」などを頻繁に演奏していた。その一方で前述したようにギター2本と歌だけでライブが出来るようになりたいとも思いながらどうすればよい感じで演奏出来るだろう?と模索していた。個人的にはともかく下手くそなのでもう少しギターが弾けるようにならなくては、と練習しようと思うんだけどなかなか成果は上がらない。今もずっとそれは続いている。人生はリハーサルのような気がする。何のための??

そして、夏前頃にポコペンさんと鈴木君の間で度々意見のすれ違い?が生じるようになった。ポコペンさんが「この曲はこんな感じのノリで、、」と注文して、鈴木君はそれを理解して演奏しようとするんだけど、ポコペンさんは「いや、そうじゃなくて、、」と云うような問答がスタジオで練習している時度々あった。無論どちらも悪気はないけれど、そう云うすれ違いはそのままライブの演奏に影響する。その頃に大阪にライブに行った。対バンは「ぱぱぼっくす」と「ビューティフル・ハミングバード」。ぱぱぼっくすは以前から知っていて親しみやすいメロディとマニアックな拘りを感じるギターのアレンジが素晴らしい。ビューティフル・ハミングバードは初めましてだったけど、素晴らしくこなれたギター演奏とビックリするような美しい歌声に聴き入った。sakanaの演奏はあまり良くなかった。終わった後ポコペンさんは鈴木君に腹を立てて鈴木君と喋ろうとしなかった。そんな事があった数日後、ポコペンさんは鈴木君に手紙を出した。電子メールじゃなくて封書の。「お互い最善を尽くそうとしているけれど、今のようにすれ違った状態でこれ以上続けるのはお互いにとってよくないと思うけど、どう思いますか?」と云うような内容だった。その数日後、鈴木君から連絡が来た。「僕、一身上の都合でsakanaを辞めます」

そんなわけで2004年夏に鈴木君は、sakanaを辞めた。

同じ頃に新たな出会いがあった。下北沢の小さなバー「lete」の店主から「ウチの店でライブをしてくれませんか?」と連絡があって行ってみた。本当に小さなお店で音響設備も何もない空間だったけど、こう云う場所でライブをするのは面白そうだなと思い、出演させてもらった。当然ドラムは不可なので2人で簡素にライブをしてみるきっかけになった。別に図ったわけではないけど、タイミングの良い巡り合わせだったと思う。1回目はまあ酷い演奏だったような気がする。でも店主の町野さんから引き続き是非と云ってもらって、以降2~3ヶ月に1回のペースでsakanaの活動が終了するまで出演を続ける事になった。小さなささやかな空間はsakanaにとってとても大切な演奏の場になった。

その後このleteで新しいアルバムを録音させてもらう事になるのだけど、随分長くなったので続きは次回。

*以前書いた97年頃までのbiographyを合わせて読めるようにしてほしいと云う要望を頂いたので以下のURLに載せました。
http://sakanabiography.blogspot.com