2019年7月18日木曜日

sakana biography 1999~2004

ようやくbiographyを書いてみようと思う。

1999年夏。
'97年頃からバイオリンの勝井祐二さん、ドラムのPOP鈴木君と一緒にバンド編成で演奏したり、2人だけで演奏したりを断続的に繰り返していたけれど、99年には4人編成のバンドとして殆どの活動を共にするようになった。ライブの度にバンドで演奏するお馴染みの曲が増えて未録音の新曲がアルバム分出来たので、新作アルバムを作りたいねと話していたところへこんな話が来た。

この頃のsakanaは時々海外から招聘された音楽家の公演の前座を務める機会があった。そしてその公演は大抵田中さんという人物が企画制作したものだった。田中さんは勝井さんと親しかった所為もあって時々sakanaに声をかけてくれた。大柄で髭面長髪、いつも黒い服を着て見るからに怪しげな貫禄を放つ人だった。自分より年下だと知った時はちょっとショックだったけど、貫禄のない僕はいつもヘコヘコしていた。そんな田中さんが徳間ジャパン内の小さなレーベルからアルバムを出さないかと誘いを持って来てくれた。小さなレーベルとは云え、一応レコード会社なので相応の予算も出て、仲介を田中さんが請け負い、プロデュースを勝井さんに、と云う話。勝井さんはメンバーでもあるのでその方が制作はスムーズに進むでしょうとの事だった。そんなわけで勝井さん仕切りでアルバム「Welcome」の制作に入ったのが1999年7月だった。

予算をもらってアルバム制作なんてsakanaは後にも先にもこの時限りだった。予算の運用は基本的にプロデュース担当の勝井さん。「音が良いのとオーナーでありエンジニアである近藤さんをよく知っているから」と云う理由で、スタジオは吉祥寺のGOK soundにしようと云われる。この辺の事はよく判らないので云われるまま決まって行く。しかし僕は「My Dear」を録音してくれた益子さんにエンジニアを頼んで、同じように阿佐ヶ谷のアーススタジオで録音したいとも頼んでみた。益子さんやアーススタジオも元はと云えば勝井さんが紹介してくれたから、その希望も取り入れてくれて半分の曲をGOK soundで近藤さんに録音とミックスを、残り半分はアーススタジオで益子さんに、と云う事になった。で、まずは7月にGOK soundで3日間ベーシックの録音する事に。GOK soundは部屋の鳴りとアナログ録音に拘って近藤さんが殆ど手作りで構築したスタジオ。往年のロック名盤みたいなサウンドが録れる。果たしてsakanaにそんなサウンドが必要なのか?とは当時も思ったのだけど、4人編成のバンドで普段通りのライブ演奏を歌以外は一発録音で、と勝井さんは主張して、GOKは最善のスタジオだという事だった。そしてその特性が最も活かされるのはなんと云ってもドラム。鈴木君は終始ご機嫌で演奏していた。

しかしこの初めての恵まれた状況に僕はあまり積極的になれなかった。そんなに立派なサウンドじゃなくていいのに、迫力なんかなくていいのに、と思う。一発録音についてもあまり気が進まなかった。演奏力があれば一発録音が最善なのは僕も判っているけど、演奏力がないならむしろスタジオでしか出来ない多重録音の利点を使う方が良いと思っていた。僕以外の3人は皆GOKでのサウンドや方法に満足だったので、簡単に云えば僕だけがごねていたのだが、勝井さんは丸く収まるようアーススタジオでの作業もセッティングしてくれたのだった。

と云うわけでGOKで録音したのは当時ライブで頻繁に演奏していた「レピア」「ロンリーメロディ」「トテリングウェイ」「ブルー」など。この中で僕の作った曲は「ブルー」だけ。つまり僕が作った曲の殆どはアーススタジオで録音した。「惑星」「リムジン」etc,

そして「Welcome」の制作は9月末にマスタリングまで無事終了した。勝井さんも近藤さんも益子さんもとても熱心に最善を尽くしてくれたし、ポコペンさん鈴木君も納得出来る仕上がりになった。僕も最善を尽くしたつもりだったけど、このアルバムは好きになれないと思った。でも状況や人の所為だとは思っていない。自分の調子が良くなかったのだと思う。一丁前にスランプだったのかも知れない。曲は毎日の様に作っているのだけど、良いと思えるものがちっとも出来なかった。「Welcome」に収録した自分の曲で良いなと思えたのは前述した「ブルー」と「惑星」だけで、他の曲はその場しのぎに用意したような曲だった。それに比べてポコペンさんは良い曲を提供していた。「レピア」「ロンリーメロディ」「トテリングウェイ」「チョーキータウン」「サムバディ」が「Welcome」に収録されたポコペンさんの作った曲。

そんなわけで99年秋、ホントならアルバム制作を終えてホッとしたいところだけど、まるで達成感を持てず悶々としていた僕は、もっと納得出来るアルバムを作らないと気が済まない状態だった。予算や状況など当てにせず、自力でやってみようと思い立ち、2年のローンを組んで必要最小限の録音機材を買い込んで自宅で録音作業を始めたのは、「Welcome」が完成して1ヶ月も経っていない99年10月だった。

今でこそ宅録で作品を作るのは当たり前だけど、宅録でCDにしてもOKな音質の録音が出来るようになったのは、90年代に登場したデジタルMTRが普及した以降。当時一般的に広まったのはA-DATと云うビデオテープに録音する4chレコーダー。これを中古で2台とアナログの12chミキサーとマイクを2本購入して当時住んでいた狭いアパートの台所で自分で録音ボタンを押しながら、作り始めたのが次のアルバム「Blind Moon」

先のアルバム「Welcome」の反動で、アコースティックギターと歌だけで簡素な曲を録音しようと決めていた。そして今まで作ってきた作品よりも単純で分かり易い作品を作りたかった。素朴で親しみ易いものにしたかった。この時点まで僕はアコースティックギターを持っていなかったけど、epiphoneのアコースティックギターを楽器店に勤める知り合いから譲ってもらった。もうひとつepiphoneのフルアコのギターをピックギターの代わりとして購入した。思えばこの時期は一世一代の散財をしたのだな。

動機はどうであれ、やる気が充実してると曲が出来る。「Blind Moon」「Miss Mahogany Brown」「知識の樹」「真昼間の見知らぬトーン」「遠くへ」が1週間くらいで出来た。すでに4人編成で時々ライブで演奏していた「Johnny Moon」もギターと歌だけで収録する事にした。ポコペンさんが用意したのは「Sky」「19」「Only One Song」「君」「Guys be Gold」

予約したスタジオで時間に追われて録音するのではないし、作っている音源を果たしてどうやってリリースするのかも決まっていない状況なので、スケジュールに左右されずに好きなだけ試行錯誤とやり直しを繰り返した為に制作には随分時間がかかった。曲作り面、アレンジ面、録音面、演奏面、を全部平行して悩んでいるから大変。

機材を買って最初に録音したのは「Blind Moon」と「遠くへ」だった。「Blind Moon」は曲が出来た翌日にどんな感じかなとギター2本を1人で試し録りした。それに風呂場にマイクを立ててポコペンさんに仮歌を入れてもらって仮ミックスしたものを聴いてみた。宅録で果たして作品が作れるのか?を早く知りたかったわけ。もう散財しちゃったから後戻り出来ないんだけどね。スタジオで録音したような立派なサウンドではないけど、自分的には十分な手応えを感じて、このやり方でアルバムを完成させようと云う気持ちは固まったのだった。機材の使い方を覚えながら、マイクってどの辺に立てればいいのか?などいちいち悩みながら録音、やり直し、録音、やり直しを延々と繰り返して行く。

とは云え、4人編成のsakanaのライブは月に2~3回ペースで続いているし、生活の為の仕事もしているわけだから、四六時中録音作業出来るわけじゃない。アルバム制作に没頭してる間って、次に録音する曲の演奏やアレンジの事ばかり考えているから、次に録音出来る時間が待ち遠しくて仕方がない。そしてようやく作業出来る日が来て1日頑張ったのに結局NG続きで成果がなかったりするとガックリ来る。でもそれが次は失敗しない為の準備に繋がるのでその次は成果が上がる。そんな繰り返しを続けて年末頃にようやく楽器類は全て録音が済んだ。

歌は仮歌が入っていたけど、ポコペンさんは全てやり直したいとの希望なので、2000年、年明けから歌入れ作業を続けた。順調に録れたものもあったけど、歌詞の推敲も伴って、やはり試行錯誤する曲が多い。「19」は2度OKが出たにも関わらず、やっぱりダメと云って3度目の録音でようやくホントにOKになった。「Miss Mahogany Brown」も1度OKが出て、僕はそのテイクがとても気に入っていたのでそのボーカルに合わせて拙いオルガンをオーバーダビングして、その感じが良いな〜と思っていたけど、ポコペンさんはどうしても気に入らないと云って、更に録り直して、収録されたテイクになった。結局採用の歌にオルガンは合わなくなったので、シンセサイザーでリバーブ音に埋もれるようなノイズを重ねて録音した。それはそれで面白いと思ったけどでも、僕は今でも一つ前のテイクの方が良かったと思っている。まあそんな風にしてどの曲も一進一退を繰り返しながら全ての音入れが終わったのは3月末だった。

1曲だけ2人共、どうにも納得の行かない曲があった。「Blind Moon」。曲は気に入っていて、アルバムのタイトルソングにしようとも決めていたけど、ポコペンさんはどうしても思うように歌えないと云い、僕は間奏のギターに明らかに音を外したミストーンと音を出しそこなったミスタッチがあって嫌だった。もちろんボーカルもギターも、他のテイクを山ほど録って、ミスの無いテイクもあったけど、なぜか最初に録ったテイクの方が「よい感じ」に思ってしまう。で、結局ボーカルは風呂場で録った仮歌、ギターも機材を買った直後に取り敢えず試し録りしたテイクを採用する事になった。残念だったけど、やりたいだけやり直した結果なのでまあ納得した。

そして4月からミキシング作業。初めて自分でミックスするのでこれまた大変。6畳1間のボロアパートの自室に引き籠り、A-DATとアナログミキサーの前に座り込んで延々と作業を続ける。1曲につき少なくて10テイク、多い曲は20テイクくらいを作った。今のようにDAW環境が当たり前になるちょっと前の時期。A-DATは一応デジタルMTRだけど、ミキシングは全てアナログ手作業なのでテイクを重ねる度に全ての設定を最初からやり直す。もう全ての曲の全ての間合いやニュアンスまでを覚えてしまうくらいに聴き続けて、5月にようやく全てのミックス作業が終わり、曲順を何通りも考えて、これまた何通りものCD-Rを焼いて聴き比べて、曲順も決まって、完成したのは2000年6月末。作り始めてから9ヶ月も経っていた。

話が逸れるけどその頃、4人バンドとしてのsakanaでとても思い出深いライブが5月に2回あった。5/16に吉祥寺のスターパインズカフェ、5/21に京都の西部講堂で、Slapp Happy初来日公演の前座を務めた。スラップハッピーやヘンリーカウは18歳〜20歳くらいの頃、LPが白く粉を吹くくらい繰り返し聴いた。だから緊張を通り越して嬉しかった。スラップハッピーの演奏は思っていた以上の素晴らしさだった。歌い始めた声がレコードで聴いていたのと同じ歌声で、そりゃ感激するよね。そしてこの初来日公演を企画して前座に誘ってくれたのは前述した田中さん、京都公演を企画したのは、やはり勝井さんの紹介で知り合った石橋さんと云う人物。この時以外にも、sakanaが京都で演奏する機会を何度も作ってくれた。石橋さんもなんとも云えない貫禄がある人で、僕はやっぱりいつもヘコヘコしていた。あ、石橋さんは僕より年上。しかしスラップハッピーとライブが出来る事に自分と同じように感激していたのは勝井さんだけだったな。ポコペンさんと鈴木君はスラップハッピーを殆ど知らなかったらしい。

そんな感じでアルバム制作以外もいろいろと慌ただしく過ごしつつ2000年後半になった。アルバム「Blind Moon」のリリースは11月頃に決まった。ジャケットのイラストを何枚も描いたりしながら、4人でのライブも10日に1回くらいのペースで続いていた。あの頃は名古屋や関西方面で演奏する機会も多かった。その理由は勝井さんがメンバーだった事が大きい。多方面で活躍して豊富な人脈があるので、勝井さんを通してsakanaが色んなイベントに誘ってもらう機会が多かった。様々な音楽家とも勝井さんを介して知り合えた。

秋頃、自分にとっては印象的なライブが渋谷クロコダイルであった。誰が主催だったか思い出せないけど、メインアクトがラブレターズのイベントだった。ラブレターズはフールズの名ギタリスト川田良さんが伊藤耕さんが服役中でフールズが活動出来ない間、率いていた別バンド。前のめりで情け容赦ないスピード感抜群のギターが炸裂していて格好良かった。で、そんな大御所の前座なので、楽屋は良さん達が使うので入れず、勝井さんと近所のファミレスに行った。当然緊張していたのだと思う。どうもお腹が痛くなって「すみません、ちょっとトイレ、」と云ってしばらくして落ち着いて戻ってみると勝井さんが「開演前にグルーヴが来ましたか?フッフッフ、、」と嬉しそうに笑っている。クロコダイルに戻って演奏を始める。何曲目だったか忘れたけどイントロを僕から弾き始める曲があった。鈴木君のフィルに続いて皆んなが入ってくる。なぜかポコペンさんがいつもと違うアレンジのフレーズを弾いている?いや、違わないのだけど、頭が半拍遅れて入っているのだ。鈴木君、勝井さんと顔を見合わせる、ポコペンさんは構わず歌い始め、そのまま行く方針だ。この状態で即座に対応出来るのはやはりドラマー鈴木君。サビから半拍ズラして表裏を入れ替える。しかし僕はそれに対応出来ず最後まで自分の弾き始めた状態で通すしかなかった。勝井さんはいつも即興的なアプローチなのでどっちつかずに演奏していた。聴いている人はヘンな曲だな〜くらいしか思わなかったと思うけど、ただでさえ緊張していた僕は気が気ではなかった。終わった後「いや〜斬新なアレンジだったね!」と勝井さんがまたしても嬉しそうに笑っている。「なんか裏表が分からなくなっちゃってね〜」とポコペンさん。こう云う事は全然珍しくはなくて度々あったんだけど、個人的に18歳くらいの頃からファンで度々ライブに通っていたフールズの川田良さんと対バンの時の話だから思い出深い。そして、この日は日系アメリカ人SSW鬼木雄二さんが聴きに来ていた。やはり勝井さんの知り合いだった鬼木さんを紹介してもらった。その後、鬼木さんとsakanaは何度か一緒にライブをした。

「Blind Moon」は予定通り11月にリリースされ、ライブに追われながら2000年が終わる。

























ボンヤリした気分で2001年が始まる。新作アルバムを作った後はいつも「ああすればよかった、もっとこうしたかった」と思い、自然と「次はこうしたい」と気持ちが向かう。だからsakanaは毎年少なくとも1枚はアルバムを作って来たし、多い年は3枚リリースした時もあった。「Blind Moon」も他の作品と同じように「うまく出来なかった、次はこうしたい」って思う事がたくさんあった。でも「Welcome」を作って間髪入れずに「Blind Moon」の制作に没頭してなんだかちょっと疲れてしまったのだ。体力的にではなく気持ち的に。それと「もっとこうすればよかった」と云う気持ちを次のアルバム制作ではなく、ライヴ演奏に反映させた方がよいとも思った。(「Blind Moon」に収録された曲は後々まで繰り返し演奏した曲が多い。「Blind Moon」や「Sky」のベスト演奏は2018年のライブだと思っている。最初に録音してから18年も経ってようやく少しマシな演奏が出来るようになった気がした)

とは云え、折角機材も買ったのだから使わなきゃ勿体ないし、と次の録音計画を模索していたのだけど、ポコペンさんはもう宅録でアルバムを作るのは気が進まないと云う。やはりスタジオ作業でちゃんとした人?に録ってもらいたいと云うのだった。そう云われてしまえば仕方がないのでしばらく録音作業はしなくていいかと思う。

一方でライブの演奏もあれこれ悩みが多かった。4人バンドとして活動出来ているのはとても貴重で大切な事だと思う気持ちはあったものの、この時期の自分はもっと簡素で地味な演奏を目標にしたかった。とは云え、アルバム「Blind Moon」の内容のようにギターと歌だけで、ライブ演奏が出来るようになりたかったけど、それを実現するのはとても難しかった(前述したように18年も試行錯誤を続けたのだから)。

バンド編成での演奏はなんとなく煮詰まって、2人で演奏してみたいけど上手く出来ず、次に作りたい作品への意欲も持てず、ライブの予定は変わらずのペースで決まるので、ともかくそれをなんとかこなしている状態だった。それでも少しずつ曲は作っていた。後のアルバムに収録される「ミスティブルー」や「スマイル」はこの頃に出来た曲。ポコペンさんは「ロコモーション」や「ラブシンガー」などを作っていた。活動を維持して行くのが辛い時期だったけど、何がしたいのか?何が出来るのか?を立ち止まって考えなくてはいけない時期だったのだと思う。結局2001年は録音作業をせずに終わった。1年間全く録音しなかったのは89年に「マッチを擦る」を録音して以来12年ぶりだった。それから個人的な事だけど個展を1度も行わない年もかなり久しぶりだった。文字通り立ち止まって途方に暮れていたのだった。

そして2002年春頃。下北沢Queで4人編成sakanaのライブがあった。「welcome」のプロモーションでお世話になった高橋尚人さんの企画だったと思う。対バンは失念。この日の演奏はまあ良くなかった。そして終わった後、もうこの編成で演奏するのは無理だと思った。僕が1人で勝手に思った事だけどどうしてもそうだった。後日勝井さんに電話して「もう一緒に演奏するのは僕は無理なので、抜けてもらえませんか」と相談した。勝井さんは「いいですよ、西脇君がそう思ったなら仕方ないからね。俺が困りますって云うような事じゃないでしょう?」と言葉少なく了承してくれた。そして最後に「一緒に活動したこの4年間、いろいろ面白かったですよ」と云われたのだった。このバイオグラフィの前半も含めて僕は勝井さんに何度もありがとうと云っているけど、この時もやっぱりありがとうございました、としか云いようがなかった。今もずっと感謝している。

そんなわけで以降、ポコペンさんと鈴木君と3人でsakanaは活動して行く。あ、無論勝井さんに電話する前にポコペンさんと鈴木君には相談したけど、2人とも「どうしてもそう思ったなら仕方ない」との事だった。以降、勝井さん経由でのライブの誘いがなくなったので、少し減ったけど月2回くらいのペースでライブを続けて行く。半年に1回くらいは関西方面へ行く。以前に比べてゆっくりになったけど新曲も少しずつ増えて行く。曲のアレンジはほぼライブ毎に変えていた。バンド練習は週1ペースでスタジオに入っていた。そして久しぶりに個展をしようと思い立つ。知り合いが安く借りられる下北沢の貸画廊を紹介してくれたのだった。10月に行う事に決まる。で、この個展で流す為のBGM音源を自分で作ろうと考えた。sakanaのライブで演奏しているのとは別で、その為の曲を用意して7~8月の暑い盛りに部屋に引き籠って録音してみた。使ったのは「Blind Moon」の時に買ったA-DATとアナログミキサー。久しぶりの録音作業はやっぱり難しいけど、この録音は自分にとって録音リハビリみたいな作業だった。「Blind Moon」の時の「分かり易く、親しみ易く」と意識した事の反動で、薄らボンヤリした捉えどころのない曲が並ぶ音源になった。sakanaとは別扱いのつもりだったけどポコペンさんに歌詞を書いて歌ってもらった。それにポコペンさん作の曲を2曲足して、アルバム「Sunny Spot Lane」としてリリースする事になったのは少し先の2003年6月の事。

話を戻して、その時の個展もやはり僕にとってはリハビリ個展みたいなものだった。今にして思えば随分荒っぽい作品が並んでいたと思うけど、あの時ちょっと無理矢理でも個展をした事で、また少しずつ動き出せるようになった気がする。この時新たな出会いがあった。デザイナーの山田さん。現在はフリーランスだけど当時はK2と云うデザイン事務所に勤務していた。初対面だったけど話しかけてくれて「Blind Moon」よく聴いてます、と云ってくれた。いろいろ話してみると古い知り合いを知っていた。ほとらぴからと云うバンドで歌っていた佳村萌さん。女優の佳村さんと云った方が分かり易いのだろうか?sakanaが代々木のチョコレートシティでお世話になっていた頃、ほとらぴからと何度か対バンさせてもらった。ふわふわした佳村さんの歌と、超絶なプログレ演奏のキーボードとギターの3人組だった。山田さんは「この展示の事、佳村さんにお知らせしておきますよ」と云ってくれた。そして後日佳村さんは妙に貫禄のあるおっさんと2人で観に来てくれた。久しぶりですね〜と挨拶をする。「こちらは映画のお仕事でお世話になっている林さん」とおっさんを紹介される。「どうも、林です」と云って名刺を渡された。「はあ、どうも、、」佳村さんは絵を気に入ってくれて、自分も最近絵を描いていて今度個展があるので観に来てください、いつか一緒に展示出来るといいですね、と云って帰った。その後2人展を実現させようと何度か打ち合わせもしたけれど、予算を含めなかなか良い場所が見つからず結局その話は見送りとなった。そんな出来事を後日ポコペンさんに報告した。「でさ、なんか妙に貫禄のあるおっさんが一緒に来てさ〜、緊張しちゃったよ」「なんて云う人?」「名刺もらったんだけど、はやしうみぞうって書いてあったよ」「それ林海象さんじゃないの?」「あ〜、そう読むの?」「、、うん、どんな感じの人だった?」「物静かなあっさりした人だったよ」「相手にされなかっただけじゃない?」と邦画好きのポコペンさんに呆れられた。

そして、3人編成になって1年くらい経った頃、アルバム1枚作れるくらい新しい曲が出来たので録音してみようと云う話になった。ライブをコンスタントに行っていたし、今よりお客さんが集まってくれていたので、当時のsakanaは活動費を貯金していた。ライブギャラから少しずつ貯めていた金が12万くらいあったのでそれでスタジオを借りて3人でベーシックを録音する事にした。「スマイル」「ホームレス・フィービー」「サブウェイ・ルー」など確か7曲を録音した。フルアルバムには足りなかったけど取り敢えず録れる分だけ録った感じ。そのベーシックにギターを重ねたり歌を入れたりは宅録作業。しばらくはその作業に没頭していた。そしてようやく完成が見えて来たので、仮ミックスを作ってポコペンさん、鈴木君に聴いてもらった。鈴木君はOKです〜と鷹揚な返事だったけど、ポコペンさんはこれじゃお話にならないと問答無用のダメ出し。そうか、ホントに??しかしこうなるともうどうにもならないのだ。結局sakana貯金12万も作業に没頭した時間も無駄にして、完成間近だった音源は全てボツになった。あの仮ミックスのDATテープはしばらく保管していたけど結局捨ててしまったな。まあでも本当は「無駄」ではない。この時の自分たちはそうする必要があったのだから、。そんな風に相変わらず歩いたり転んだり伸びたり縮んだりしながら、3人編成で模索を続けて2003年が終わった。

そう云えば2003年はひとつ新たな出来事があった。インターネットが急速に普及しつつあった時期、ようやく自分もパソコンを購入してネット環境を手に入れた。ネットが観れるのもメールも目新しかったけど、パソコンを扱うこと自体が新鮮だった。取り敢えずデザイン作業が自分で出来る様にとイラストレーターとフォトショップの使い方を覚えて、それまで切り貼りの手作業で行っていたレイアウト作業があっと云う間に正確に行えるのが嬉しかった。初めて作ったデザインデータはアルバム「Sunny Spot Lane」のジャケットだった(ヘンテコなデザインだったけど)。使い方を覚える前にやる事を決めてしまって、無理矢理それを行うと使い方ってわりと覚えられる、宅録と同じだな。パソコン初心者なのでキーボードで文字を打つのが凄〜くゆっくりだったけど、メールなどを打っているうちにすぐに慣れた。よっしゃ、こうなったらsakanaのホームページを自分で作ろうかと思い立ち、2004年の年明けにホームページ作成ソフトを手に入れてホームページを作り公開したのが2004年2月だった。その時に下にリンクしたバカみたいに長いbiographyを書いた。長文を打つとますますキーボードに慣れる。まあそんな感じで遅ればせながら自分の日常にもパソコンが現れた。

2004年は銀座月光荘での個展と共に始まった。モノトーンを基調とした大きな作品を壁いっぱいに展示して楽しかった。僕は自分の個展に在廊するのが苦手だけど、この時は自分で店番?するしかなくて1週間ずっと在廊したので随分たくさんの人に会った。足を運んでもらってありがたかった。もう自作のBGMを流す気はなくて、好きなCDを持って行って流していた。確かジョン・ルーリーの「Down By Law」のサントラだったと思う。

3人のsakanaは変わらずのペースでライブを続けていた。試行錯誤も相変わらず。新しい曲達は少しずつ纏まって来た。「ロコモーション」「パナマニアンハット」「ミスティブルー」「サブウェイ・ルー」「ホームレス・フィービー」「サマータイム」などを頻繁に演奏していた。その一方で前述したようにギター2本と歌だけでライブが出来るようになりたいとも思いながらどうすればよい感じで演奏出来るだろう?と模索していた。個人的にはともかく下手くそなのでもう少しギターが弾けるようにならなくては、と練習しようと思うんだけどなかなか成果は上がらない。今もずっとそれは続いている。人生はリハーサルのような気がする。何のための??

そして、夏前頃にポコペンさんと鈴木君の間で度々意見のすれ違い?が生じるようになった。ポコペンさんが「この曲はこんな感じのノリで、、」と注文して、鈴木君はそれを理解して演奏しようとするんだけど、ポコペンさんは「いや、そうじゃなくて、、」と云うような問答がスタジオで練習している時度々あった。無論どちらも悪気はないけれど、そう云うすれ違いはそのままライブの演奏に影響する。その頃に大阪にライブに行った。対バンは「ぱぱぼっくす」と「ビューティフル・ハミングバード」。ぱぱぼっくすは以前から知っていて親しみやすいメロディとマニアックな拘りを感じるギターのアレンジが素晴らしい。ビューティフル・ハミングバードは初めましてだったけど、素晴らしくこなれたギター演奏とビックリするような美しい歌声に聴き入った。sakanaの演奏はあまり良くなかった。終わった後ポコペンさんは鈴木君に腹を立てて鈴木君と喋ろうとしなかった。そんな事があった数日後、ポコペンさんは鈴木君に手紙を出した。電子メールじゃなくて封書の。「お互い最善を尽くそうとしているけれど、今のようにすれ違った状態でこれ以上続けるのはお互いにとってよくないと思うけど、どう思いますか?」と云うような内容だった。その数日後、鈴木君から連絡が来た。「僕、一身上の都合でsakanaを辞めます」

そんなわけで2004年夏に鈴木君は、sakanaを辞めた。

同じ頃に新たな出会いがあった。下北沢の小さなバー「lete」の店主から「ウチの店でライブをしてくれませんか?」と連絡があって行ってみた。本当に小さなお店で音響設備も何もない空間だったけど、こう云う場所でライブをするのは面白そうだなと思い、出演させてもらった。当然ドラムは不可なので2人で簡素にライブをしてみるきっかけになった。別に図ったわけではないけど、タイミングの良い巡り合わせだったと思う。1回目はまあ酷い演奏だったような気がする。でも店主の町野さんから引き続き是非と云ってもらって、以降2~3ヶ月に1回のペースでsakanaの活動が終了するまで出演を続ける事になった。小さなささやかな空間はsakanaにとってとても大切な演奏の場になった。

その後このleteで新しいアルバムを録音させてもらう事になるのだけど、随分長くなったので続きは次回。

*以前書いた97年頃までのbiographyを合わせて読めるようにしてほしいと云う要望を頂いたので以下のURLに載せました。
http://sakanabiography.blogspot.com