誰かと知り合って話をすれば、好きな物事の話題で共感出来るか否かって流れはよくあるよね?音楽、食べ物、本や映画や俳優その他なんでも、。そんな中で「笑い」「可笑しみ」についての共感ってわりと大きいと思う。そこで響き合えないと「気が合わないな」って考えに直線的に結びついてしまう事ってないかな?音楽や絵画で食い違っても人それぞれって思うのは容易いけど、可笑しさってそこまで寛容になれない気がする。それは可笑しさには自虐や諧謔、他者や社会への意地悪な視点や皮肉を経由している場合が多い所為かも知れない。そしてそれが小説なんかよりもっとダイレクトって云えばいいのかな、。別に分析するほどの事じゃないけど「可笑しさ」って度を越すとなんとなく引いてしまう。パンクロックとかより暴力的なアナーキーさがあるよね。着地点が「笑い」なのでそれが逆に露骨に感じられるのかも?、、たぶんその辺の塩梅が絶妙に感じられる人が自分が好む「面白い人」なのかも知れない。あ、この話はM-1クランプリとは関係ないです、観ていないので。
前置きが長くなってしまったけど、ホントは今日は久しぶりに「絵を描くこと」にまつわる話を書きたかった。人物を描く際の「表情」について。云うまでもなく表情は顔の筋肉の動きで作られる。眉間に皺を寄せたり、目を大きく見開いたり、口をすぼめたり開いたり、、様々な「かたち」の変化を作る。でもその筋肉の動きによる変化を写し取っただけでは「表情」にはならない。笑顔を描いても怒った顔を描いてもなぜかその心情が伴わない。これは不思議だけどそうなんだよね。自分が描く人物画は殆どが静かな無表情なので尚更心情は読み取り難いものだけど、そこに僅かな(微かな)表情を現したいと思って描いている。
自分の経験では「表情」を現す要点は陰影の付け方だと思っている。特にコントラストを強調するとかそう云う大きくて劇的な変化ではなくて、些細なトーンの変化が表情を大きく左右すると思う。 うむむ、これは分かり難い話だと思うけど、絵を描く人だったら共感してもらえると思うんだよね。その陰影の微細な変化が表情に与える影響を楽しみながら描くのが自分にとっての人物画の面白さだなと。
少し話は変わるけど、引き続き「表情」について。マスク生活が長くなって、他人の顔は目鼻辺りまでしか見ない日常に慣れて来た。「目は口ほどにものを云う」と云われるように目は人の感情や思考を現すけれど、やはりそれは顔全体の表情に比べれば表現が小さい。映画などで人の顔全体を観ているとなんて表情豊かなんだろうと思う。鼻や口も目と同じようにとても表現力がある。
まだ収束にはしばらくかかると思うけど、はやく人の顔を全部見られるのが当たり前の生活に戻れますように。