2020年4月17日金曜日

記録の大きさ

緊急宣言は5月6日まで全国に拡げられるとニュース。医療現場で働く人による切実な記事を読んで誰もが声を上げなくてはいけない状況だと感じる。数百億を投じてマスクを2枚配るとか、人々の神経を逆なでするような動画を投稿する総理大臣とか、此の期に及んで「暢気さを演出する」悪い冗談みたいだ。そんな表向きのヘンテコな看板(総理大臣)の後ろ側でどんな駆け引きが行われているのだろう?と思ってしまうけど、そんな勘ぐりに意味はなく、取り敢えず分かっている事から判断行動するしかない。

感染が縮小に転じていずれ「もう感染の心配はありません、元通りの日常が戻って来ました」ってなるのを期待するけど、たぶんそれはない。9年前の震災後の原発事故で放射能汚染の恐怖を誰もが感じるようになって、いつか「福島原発の放射能漏れは止まりました。もう汚染の心配はありません」ってなってほしかったけど、ならないまま放射能への心配が続いているのと同じように、感染への心配は生活(日常)の一部になって行くのだと思う。

(とは云え、福島で今も避難生活を強いられているたくさんの人達はそれとは次元の違う意味で日常を奪われたままなので、その人達に穏やかな日常が戻る事を願います。それに云うまでもなく、9年前の震災以前から原発反対も放射能汚染の危険危惧もあったし、何かしらのウィルス等に感染する危険もあったけれども、)

きっと世の中に新しいシステムや常識?が求められて作られて行くのだと思う。もう満員電車の様なぎゅう詰めの狭い空間で汗だくで爆音を浴びる様なライブってなくなるのかな?って思ったりする。いや、そこまで自分には分からないし、僕はもう20年くらいそんなライブの現場には行っていないけど、。ともかく1日も早く終息(収束)を願うけど、既に世の中は変わり始めていて「元通り」はない。

僕は小心者なのでささやかな日常が変わらないで続く事を願う質だけど、仕方がないと思う。放射能やウィルスは人間が掌握出来るものではないから。

震災後政権への不信感が拡がったように、今回の感染拡大も政権への不信感を募らせる人を更に増やしている。方々から利権がらみだと云われているマスク配布などはすぐに止めて、必要な人、場所へ適切な支援、対応をしてほしい。一律10万円8月以降?、、本気で助けようとは思っていないのかもな、やはり。支配層の考える事は残す価値があるもの(人)とそうでないものとの線引きの問題だと思う。自分は真っ先に切り捨てられる側に居る人間なのは云うまでもない。でも有難い事に自分にも助け合う人達がいる。だから生き延びなくてはね。

話は変わってまた少し昔話。僕が高校卒業後都内でアパートを借り一人暮らしを始めたのは1983年。青山の生花店でバイトしながらバンドをやったり給料日にはレコードを買ったり、気ままな一人暮らしだった。電話はなかったので家賃と電気ガス水道代をバイト給料で支払い、残りで銭湯に行き自炊生活の細々とした暮らし。毎月ガス代を集金に来るおばさんに支払っていたんだけど、ある時見慣れないおっさんが集金に来た。先週払いましたよ?と云うと「じゃあ領収書を見せてください」と云われ、保持していなかったので残ってないと云うと「それじゃ支払ってもらわないと困ります」と云い張るので仕方なく払った。確か3,000円程度だったけど自分には些細ではない。後からどうにも不審に思い、怪しげな領収書に記載された電話番号に公衆電話から苦情の電話かけてみたけど当然通じない。当時はそんな詐欺が身近だった。あと見知らぬ女の人が訪ねて来て「英会話セット」みたいなのを売りつける押し売りもあった。こう云う詐欺は単身者用のボロアパートがターゲットにされ易かった。

その時の経験が教訓になり、以降僕はなんであれ支払ったものの領収書は全て保持するようになった(さすがにスーパーのレシートまでは取ってないけど)。ウチの押入れには今も1983年〜現在に至るまでのあらゆる領収書が段ボールに入れて保管してある。近年は紙の領収書は随分減ったけども。そしてパソコンを買ってネットに繋いだのが2003年だったけど、その後全てのメールの送受信履歴は保存してあるので、メールによる領収書等も全て残っている。ネットで買い物をするようになって今までに10回くらい通販詐欺に出くわしたけど支払った金が回収出来なかったのは1回だけで、あとは全て回収出来たのはメール履歴を保管していたのが役立ったから。回収出来なかった1回については市役所の消費者相談所にも行ったけどダメだったな、残念。

自分の様に職業的にもその他どんな面でもなかなか信用されない人間にとって、記録は唯一の頼れるものだと思っている。だからこれからも領収書やメール履歴はどんなに無駄が多くても保存し続ける。近年はiCloud等のバックアップもあるから便利。

時々確定申告などで必要があって古い領収書やメールの履歴を確認する時「へぇ〜20年分の記録ってこんなもんか、」と思う事がある。人の一生分の記録って小さなものなんだな。

記録は自分の人生の小ささを教えてくれる。それは怖い事だろうか?、、大きいと勘違いするよりはマシ。小さいと感じる方が有り難みが増すから。



2020年4月9日木曜日

追憶の中に見出すもの

緊急事態宣言が発効されて、コロナウィルス感染拡大防止の為に「行動を変える必要がある」「自分を、愛する人を守る事が出来るのか?それは皆さんの行動にかかっている」と総理大臣が云う。ならば「皆さん」に、行動を変える事に伴う損失を補う為の、明確な援助を約束しなくては不満の声があがるのは当たり前。自分は普段政治的発言はしない方だけど、いつも凄く無理をして税金(国保含む)をギリギリで支払っているので、なのにいざとなったらその対応かよ?とは思う。対応の内容は未だ流動的なので具体的な数字を云っても意味はないかも知れないけど、「フリーランスの場合の補償条件は年収が36万を下回った場合」って月3万円で生活出来る人ってどんな人だろう?現時点で自分がもらえるとは思っていないけど、税金や年金の支払い免除を期待している。

でも取り敢えず自分の事は置いといて、もっと切羽詰まって困窮している人達を考える。云うまでもなく今までライブや展示でお世話になったお店はどこも存続の危機に瀕している(たぶん)。行政からの補償も大切だけど、たくさんお世話になって来た身としては何か出来る事はないだろうか?と思う。でも現時点では課金制の配信ライブくらいしか思い付かない。これからも考えて行く必要を感じている。それは云うまでもなく自分の為に。

コロナウィルスの影響で仕事を失った(減った)人達も、負担が増えて過酷な仕事に従事する人達も困難に直面している。専門家?の予測は色々目にするけれど、1日も早くに感染縮小から終息へ向かう事を願います。

少し話は変わって、SNS等で「此の期に及んで政治的発言をしない人はダメだ、どう云うつもりなんだ?」と云う批判を度々見かけるようになった。皆で力(声)を合わせて状況を変えて行かなくては、と云う考えは分かるけど、こう云う発言が多くなる事を恐ろしく感じる気持ちも自分にはある。何を信じるか信じないか、何を諦め何に希望を見出すのか、を周りの空気を読んで決めて行く人が増えるのなら、。

僕も随分前から現政権は信頼出来ないと思っています。ともかく今は必要なところ(人)へ迅速に補償、支給が行われる事を求めます。

更に話は変わって、また少し思い出話。
横浜に住んでいた中学生の頃、僕の通う学校は非行と暴力沙汰が横行する学区内屈指の問題校だった。廊下ですれ違う先輩に機嫌悪かったと云う理由だけで殴られ奥歯を折られるような環境で、金を出せと云われて無いと云えば蹴られ、明日家から持って来いと云われて無理と云えば殴られ、が日常茶飯の中学校3年間はそれはそれは詰まらない日々だった。だからありがちに音楽(主に洋楽)にのめり込んでそれだけを楽しみに凌いだ。そんな頃の事を最近よく思い出す。あんなに何をするのも嫌な毎日だったはずのに、なぜかもう戻れないのが残念で仕方がない。追憶ってそう云うものか?思い出を美化してるなんて単純な話ではなくて、きっと「あの頃」に置き忘れた想いが色褪せないまま残っているんだな。

誰もが助け合って生きている。それに帳尻を合わすかの様に「理不尽」は生きている限り付いてまわる。何処に居ても何をしても狡猾な政治家みたいな人に出くわす。そんなクソ野郎を恐れる必要なんてない。まるで居ないかの様に明るい方を向いていよう。とは云え何も云わないでいると「云わないのが悪い」と云う連中だから云うべき時に云わなくてはいけない。



2020年3月29日日曜日

時が経って得られるもの

新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防ぐ為、なるべく外出しないように、なるべく人に会わないようにと云われている。万年引き籠りの自分はあまり変化のない生活だけど、閉塞感や危機感は感じている。でも世の中に不機嫌が蔓延している時に、更に不機嫌を撒き散らすのは避けたい。感染を拡げないために自分に出来る事をシンプルに考えたい。

まずは自分が企画している今後のライブの中止延期について。規模の大小は関係なく、誰もが自分事として向き合わなくてはならないと思うので。でももちろんなるべく中止したくない。自分も色々考えて準備している事だし、関わってくれている人達も同様だから。まだ決められていないけど、この状況が続く、もしくは悪くなるようであれば中止せざるを得ないと思う。1日も早く事態が終息する事を願ってやみません。

話は変わって何の脈絡もないけど少し思い出話。自分の様に特に音楽を学んだわけでもなく、ただ好きでやり始めて、そのうち小さな店で演奏するようになった、みたいな人達なら分かる話だと思うけど、やり始めた時期に何かしら縁があってお世話になったり、影響を受けたりした音楽家の人達って、音楽を続けて行く限り付いて回る。こんな云い方をするとよくない事みたいだけどそうじゃなくて、ただそう思う。「仲間意識」とか「孤高」とか、そんなつまらない話じゃなくて、単純に「縁が生じる」人や場所と、そうではないものが、きっと誰にでもあると云う事。

僕がsakanaを結成して都内のライブハウス等で活動を始めたのは1984年。デモテープのカセットを持ち込んでなんとか出させてもらうのだけど、毎月お客さんは知り合いが2~3人の状況が続く。そしてその頃好きで度々ライブに足を運んでいたバンドでドラムを担当していた人と顔見知りになり、その人が「最近別のバンドに参加していてギターを探してるんだけど」と連絡をもらって、The GODと云うバンドに参加する事になる。1985年〜1989年の4年間活動を共にして、その間に随分たくさんのバンドをやっている人達と知り合い、それが後のsakanaの活動に繋がったと思う。具体的には割礼など。

sakanaが都内の様々な店で演奏する機会が得られたのも、アルバムを何枚も作る機会が得られたのも、元々のきっかけはThe GODに参加した事だったわけ。

だから現在は誰も気に留めてなんかいないと思うけど、自分は勝手にずっと感謝し続けている。近年は付き合いは全くないけれど、今も何処かで彼等が演奏を続けていると知るとなんだか頼もしいような気持ちになるのだね。








2020年3月3日火曜日

辿り着くべき場所

世間でよく云われるように、信頼を得るには長い時間がかかるけど失うのは一瞬、と云うのは本当にそうだなと思う。もちろん自分自身が何度も信頼を失って来た経験上で思うし、逆に自分が相手を信じられなくなった経験もある。

「信頼を得る」と云う事は、誰も気に留めない小さな約束を黙って守り続けるような事だと思う。音楽を作ったり絵を描くのも自分にとっては同じような事。

小さい事柄に律儀な人、正直な人は立派だと思うし自分もなるべくそうありたい。逆に大きな事を口にして自信満々の人ほど信頼出来ない。「ポイントは押さえているから」みたいな要領の良さは自分にとって信頼と最も離れた所に在る気がする。

話は変わって、
先行きの分からない不安が日常を覆っている。入り乱れる情報が世の中の怒りや焦燥感を煽っていて、3/11の震災直後を思い出す人も少なくないと思う。信じられない采配を振るう政治家の様子がSNSに度々流れて、もう「信頼」なんてものは「絵に描いた餅」みたいなもので何処にも存在しないのかも知れない。「総理大臣が変われば」「組織が解体されて一新されれば」みたいな希望を持てる人が果たして今日本に居るのだろうか?時々見かける「誰になったって今よりはいいだろう?」と云う意見に自分はあまり賛同出来ない。

ライブイベント等が次々に中止延期になっていて、もちろん今の状況ではそれは仕方がないと思います。でも今月の岡山での個展は予定通り開催中です。無理にお出かけにならない方がよいと思いますが、来てくださった方に静かな穏やかな時間を過ごしてもらえたらと思います。それが僕の守り続けたい約束なのかも知れません。

西脇一弘 イラスト展 2020 @城下公会堂
3月1日(日)〜3月30日(月) 11:00~18:00 火曜日定休
岡山市北区天神町 10-16 城下ビル1F
086-234-5260 *電話でのお問い合わせは15時以降にお願いします。




















When it's an area with your attentive heart.
I can go everywhere.
Is your heart free?

そこにあなたの心が込められていれば、
私はどこにでも行くことができる。
あなたの心は自由であるか?






















This is the place where you sleep.
The place where I should arrive.

ここはあなたが眠る場所であり
私が辿り着くべき場所


2020年2月22日土曜日

知恵と老い

来月の岡山でのイラスト展に向けて相変わらず部屋で絵を描く時間が多い毎日。

20代の頃、バンド活動とバイトが生活の主だった。絵も描いていたので出会う人にそれを云うと「へえ〜」と興味を持ってくれる人もいて、知人が画廊に勤めているからとか、知り合いにカメラマンがいるから紹介するよとか、云ってくれて色んな人に会いに行った。大抵は40~50代の人で、作品を観てもらって話を聞いた。「君は何が描きたいの?先ずはそれがなくちゃ。アーティストみたいなものに憧れてるだけなんじゃないの?」「人真似じゃなく自分の絵を探さなきゃイカンよ。それは並大抵の事じゃない。日本を出て色んな場所を体験してきた方がいい。特に東南アジア圏を旅すれば少し自分の事が見えてくるんじゃないかな」等々、アドバイスをもらったのだった。僕はアーティストなんて呼ばれるものは胡散臭くて恥ずかしいとしか思っていなかったのでそんなものに憧れた覚えは1度もないけれど、何が描きたいの?君の絵はそんなものなの?と訊かれて全く答えが自分の中に見当たらない事はそれなりに考えるきっかけになった。ただ子供の頃から絵を描くのが好きだっただけでそれ以上の考えがなかったので「そんなんでいいのか?」と自問し始めたのだった。

だから20代〜30代は遅ればせな「自分探し」をしながらモヤモヤしたまま絵を描いていた。でもそうやって悩んでいる事に果たして意味なんかあるのか?とも思ってくるのが40代以降。今から10年くらい前(45歳頃)になんで若い頃の説教を真に受けてそんな事で悩んでいたんだろう?とようやく気付く。自分みたいなつまらない人間を掘り下げて表現するなんて、わざわざするような事じゃなかろうと思い至ってそれまでのモヤモヤがなくなって随分楽しく絵を描くようになった。何が描きたいのかではなくて、何が描けるのか?でしかない。何か出来る事があるならありがたいし、その「出来る事」を少しずつ広げて行けたら楽しさは続いて行く。

長いストロークで淀みない線を引く為には、たくさん描く以外の方法はない。見過ごしていた細部に気付くには描きながらたくさん考えるしかない。長くて80年くらいしか生きられない人生で絵を描く楽しみを満喫するのは到底無理な話だ。取り立てて才能もなく、賢い頭脳も優れた身体能力もない自分ならなおさら時間がかかる。

話は変わって、、

先日10年ぶりに老眼鏡を新たにした。10年使い続けている老眼鏡はすっかり度が進んで焦点が合わなくなっていたので、絵の細かい部分を描く時とても不便だった。絵の作業で1ミリは決して「小さい」わけではない。1ミリのズレや違いは大きな差異だと思う。でも今までの老眼鏡では1~2ミリの見極めは到底困難だったので、見えないけど勘で描いていた。しかし最近更に度が進んだようでこれはなんとかせねばと思い、ヤフオクで2,000円のフレームを買い、激安眼鏡店に持って行ってレンズを入れてもらった。レンズ代は2,500円だったので税込5,000円弱で作れてまあよかった。検眼の際、今までの度より2段階アップすると手元はくっきりクリアに見えたけど、少し離れた場所はさっぱり見えなくなる。今までの老眼鏡はかけっぱなしで出歩く事が出来たのでそれだけ手元にピントは合っていないけど面倒がなくて便利でもあった。なので中間を取って一段階アップのレンズにしてもらった。だから新たな眼鏡も細かい作業に完全にストレスがないわけではないんだけど、今までの状況と比べたらとてもよく見える。これだけの違いを感じると、今までの眼鏡で描いていた近年の作品は果たして大丈夫だったのか?と少し心配になるけど、きっと新たな眼鏡で描いたものと差はないと思う。絵は「眼」で観て描く作業は2割くらいで、残り8割は「頭」で観て描くものだと思うから。更に言うなら「心」で観た情報は思い込みが多く占めるので作画には邪魔になる。

と云うわけで眼鏡を新調して作業がやり易くなったのはよかったけど、それによって作品のクオリティが向上するわけではない。

僕は若い頃視力がとてもよく両眼2.0でその先も見えそうなくらいだった。あらゆるものが鮮明に観えていて、それを当たり前だと思っていたんだな。でも今のように観え難くなってからの方が絵を描く楽しさは格段に増したと思う。

尊敬する音楽家の山口冨士夫さんが晩年にこんな事を云っていた。「人は年をとると知恵は深くなる。身体は衰えるけど、」若い時は力があるけど知恵がない。知恵がつく頃にはそれを使う力がないって事だね。だから少ない力を有効に使うように知恵を絞るしかないんだよね。それは決して嫌なことではない。

絵を描く時以外は今まで使っていた老眼鏡の方が便利なので、相変わらず度の合っていない眼鏡をかけっぱなしにしている。

更に近況。1週間前に右上の臼歯を抜いた。10数年前に治療済みだった歯だけど、根っこがダメになってしまい抜かざるを得ない状況だった。結構な消耗だったけど、実は1年以上前から気になっていたので、まあよかったと思いたい。

更に近況。岡山県瀬戸内市の長島愛生園内、さざなみハウスでイラスト展をさせてもらっています。2月28日(金)までです。静かな美しい環境の場所です。お近くの方は是非足を運んでみてください。そして3月1日(日)〜3月31日(火)まで岡山市の城下公会堂でイラスト展をさせてもらいます。さざなみハウスで展示した作品を巡回しつつ、新たな作品を数点足して展示します。城下公会堂で展示させてもらうのは約5年ぶりになります。是非足を運んでみてください。





2020年2月6日木曜日

キングオブコメディ

前々回の投稿に追記した通り「キングオブコメディ」を観た。感想が追記するには長くなりそうなので新たに投稿する次第。(相変わらずネタバレありです)

確かに「ジョーカー」はラストだけではなく全編に渡って設定やヴィジュアルに「キングオブコメディ」からの引用をふんだんに盛り込んでいるのが分かった。それが分かっても自分にとって「ジョーカー」は面白くなかったし、逆に「キングオブコメディ」はとても面白かった。自分にとって好きな映画の一つになると思う。

どちらの映画も現実と妄想の境目が曖昧に描かれている。「ジョーカー」の最初の方で母親と一緒にTVを観ながら妄想に耽っている様は「妄想」と判る様に描かれていて、その後の様々な描写も妄想なのか?と思わせる前説のように機能している。同じアパートの住人との情事等、妄想だったと判る様に説明されるものとそうでないものの境が分からなくなって、結局ラストシーンによって全部妄想だったかも知れない的な終り方をしている。

「キングオブコメディ」はラストの「成功」は妄想として描かれているけど、それ以外は妙なリアリティがある。視点が主人公以外に据えられているのでたぶんそう感じる。云い方を変えると、主人公と観ている側にある程度の距離を作っているので、そう感じるのだと思う。

現実と妄想の境が溶け始めて「こうあるべき」秩序が外的にも内的にも壊れて行く様を描いて「他人事じゃない感」を突き付けるのが両作品の肝になっていると思うんだけど、自分にとっては「キングオブコメディ」の方が圧倒的に怖かった。家に引き籠もって毎日を絵を描いている自分だって似たようなものだ、と思わざるを得ない。さすがに最後のような成功を妄想をするほど若くはないのだけども、。

そして「キングオブコメディ」は主人公のイカれ方が陽性に振り切れているので正しくコメディで、その「犯罪に至る動機」が好きな女に格好つけたかった、と云うある意味みみっちい理由なところが哀しい。これも妄想とも取れるんだけど現実に逮捕されたと思う方が面白い。あと共犯者の痩せぎすの女性の存在がスゴく効果的で面白い。チャップリンの初期作品の太った相棒?みたいな感じ。

コメディとなると自分はどうしてもチャップリンを引き合いに出してしまう。「キングオブコメディ」の可笑しくて哀しい様と皮肉な描写は正しくチャップリン作品の後継とも思えたけど、チャップリンほど残酷ではない。「街の灯」はたぶん知っている人が多いだろうから説明はしないけど、あのラストの残酷さはスゴいなと思う。盲目だった女性の失望、あらゆる要因が繋がった最も美しい瞬間の失望。英雄であろうと見栄を張り切った浮浪者と「キングオブコメディ」の主人公には共通点も多いけれど、他者の為か自分の為か、が全く違っている。



2020年2月2日日曜日

明るい力

2月1日〜2月28日まで岡山県瀬戸内市 長島愛生園内 喫茶さざなみハウスでイラスト展をさせてもらいます。長島愛生園は国立ハンセン病療養所です。作品はいつもと変わりありませんが、らい予防法が1996年まで廃止されなかった事、隔離されて生きた人々の想いと世の中の様々な偏見と差別について考える機会になりました。

もちろん差別や偏見はない方が善いし、なくなるように努めるべきですが、なぜか差別を受けて苦しんだ立場の人々も人を差別して見下します。差別や偏見はしている当人が気付かないところに潜んでいる場合も多いように思います。この様な傾向は人間の(社会の)暗部にフォーカスしてネガティブな感情を募らせると増幅するように思えます。と云うような事を自戒を含めて考えました。

人には善い方へ向かう力も悪い方へ向かう力も同じように働くのだと思います。ならば自分は、隔離されて生きたハンセン病の方達の人生にも、自分や他の全ての人々と同じように明るく幸せな時間があった事に気持ちを向けたいと思いました。それはとてもささやかで静かで、目を凝らして耳を澄まさなければ気付かずに通り過ぎてしまうようなものかも知れません。

瀬戸内市長島はとても静かな場所だと聞いています。お近くの方は是非足を運んでみてください。よろしくお願いします。

西脇一弘 イラスト展 2020
8:00~16:00 定休日:月・火
喫茶さざなみハウス:山県瀬戸内市邑久町虫明6539
問い合わせ:080-2923-0871