2022年3月23日水曜日

名演とは?

近年は音楽の聴き方が多様化して選択肢がやたらと多い。サブスクは便利と思うけど未だ馴染めない。CDは変わらずよく聴くけど、興味があっても買わずにYouTubeですませてしまう事も多くなった。自分世代はアナログレコードが良い音なのは知っていて馴染み深いけど、自分はそう云う方向への熱意?があまりなくおもちゃみたいな再生装置しか持っていない。昔もLPは本と並んで引越しの悩みの種だったのでレコードと本はなるべく所有しないように心がけていた(買ったら売るを繰り返すわけ)。そんなわけでwavやmp3への移行はモノが増えない点では大歓迎だけど。

書こうと思ってた事と話がズレてしまった。話を戻すと自分はここ15年くらいはYouTubeで音楽を聴く事が多くなっていて、その利点は音源をなんらかの形で流通させるような活動をしていない人達の音楽(演奏)が聴けるところ。例えばブラジルやアルゼンチンのたぶん毎日地道に働いている労働者風のおじさんが、仕事を終えて帰宅して台所でビール飲みつつご機嫌でギター弾いて歌っている動画なんかを観るのが好きなのだ。それは古いショーロやサンバの曲だったりして、おじさんにとっては心身に染み付いたような歌で、その歌声はとてもアツい。人によってはプロか?と思うくらい上手い人もいるけれど、その思い入れの溢れ具合によってむしろアマチュアだと分かったりする。プロの演奏としては自分の感情に耽溺し過ぎているのだね。

こんな感じのおじさんは日本人にも結構いて、自分には長年追いかけて動画を楽しみにしている人もいる。自分と同じくらいの年齢に見える人で、たぶん普段は固い会社勤めか公務員かなと思われる風貌で、10年以上前から観ているので最近随分老けたな〜とか他人事とは思えなかったりして、自分世代には当たり前に親しんで来た70年代のカーペンターズなんかの名曲ポップスをギターでしみじみと弾いている動画を拝聴している。おじさんの唯一の趣味なのかも知れないギター。動画の背景は随分むさ苦しい散らかった部屋で、最近髪の毛が薄くなって風采の上がらなさに拍車が掛かっている。長年弾いているのでギターの腕前は相当なものだけど、たぶんライブをした事はないと思う。奥さんや子供は居るのだろうか?プライバシーが分かるような情報は一切ない。でもカメラの前のその熱過ぎる演奏から、おじさんがどれほど音楽に救われて生きて来たのかが分かるのだ。そしてその演奏は著名な音楽家の演奏を凌ぐほどに感動的だ。音楽は人を選んだりしない。もっと大きなものなのだね。


 

少し長くなるけど、話は変わってまた思い出話。近年は機会が減ったけど、以前は演奏ツアーやレコーディングが度々あった。若い頃はバンド解散やメンバー脱退のきっかけは大抵演奏ツアーかレコーディングだと皆で認識していた。1週間を超える演奏ツアーは過酷だ。演奏後は毎晩安居酒屋で打ち上げて安宿で雑魚寝しておんぼろ機材車に乗って次の場所へ行って演奏、また同じ事の繰り返し。最初は皆気遣い合ってご機嫌に過ごすけど、3~4日経つと気遣いの箍が外れて、酒やその他の作用が我儘放題に追い打ちをかける。疲労困憊でツアーから戻って2~3日すると「オレ悪いんだけど抜けるわ」って云い出すメンバーがいるわけ。実は自分もまさしくそうやってバンドを辞めた。

レコーディングは精神面でさらに過酷。後々残って繰り返し聴くものを制作するので、演奏に対するエゴのぶつかり合いが多い。皆で一斉に演奏〜録音の場合はメンバー全員が納得出来る演奏テイクはまずないので、どのテイクにするかの問答での駆け引きが様々なストレスを生む。パート毎に別々に録音して行く場合は、先に録音するベーシック側(ドラムや伴奏パート)は後のパートが録音した後に自分のパートをやり直すのはご法度なのだが、それをやってしまって揉めたりする。後からパートを重ねる側は既に録音されているパートを聴きながら演奏するので、後出しジャンケンのような、イタチごっこのような、身勝手さが生じるわけ。そんな風にレコーディング作業はメンバー個々の身勝手さを浮き彫りにするので、やはり「オレ抜けるわ」のきっかけになり易い。自分もsakanaをやっていた間、何度もそのような気持ちになった(勿論自分が身勝手な側の場合も何度もあった)けど、レコーディングがきっかけでメンバーが脱退した事はなかった。でも近年他のプロジェクトの録音作業で同じような目にあって、相手のあまりの無自覚さに辟易して辞めた。

演奏ツアーも音源制作の為のレコーディングも順調に行ってる時はホントに楽しいけどそれは一瞬。最後までやり抜くには難しい場面をどう切り抜けるか、の方が重要。音楽の場合は人との関わりの難しさが多いけど、絵のように一人でやる事が大半のものでも共通してると思う。「うまくやる事」より「うまくやれなかった時どうするか?」だよね殆どの事は。「うまくやる」ってエゴから離れないと良い方向へは行けない。

2022年3月18日金曜日

ROCKER

幸せは、何十年も共に過ごして来た相手と同じ思い出話を何百回も繰り返す事、台所で交わす気にも留めない会話、並んで歩いた何千キロの道、その他さまざまな永遠に繰り返したい事柄、始まりにも終わりにも気付かないほどに。

誰の生活も等しく守られますように。戦争反対。天災を事前に防ぐのは難しいとしても、救援支援補償が迅速に行き渡りますように。

話は変わって、先日書いたオートレジが困難に直面しているらしい。大量の硬貨を投入されて機械が詰まる事例が相次いでいるそう。それには銀行が硬貨の預け入れに手数料を取るようになったのが関係しているらしい。逆両替、。その他にもいろいろ問題あると思うんだよな、未だ完成には程遠い仮システムな感じがする。

また話は変わって昔話。
18歳の頃、高校出たらいっちょバンドやるぜと思ってて、友達を誘い込もうとがんばってて、 この時点で思ってた「バンド」って所謂ロックバンド。特に意識してたわけじゃないけど、それまでの自分が好きだったバンドの大半はロックバンドだったから。でもロックバンドもしくはロックって言葉にはなんだか音楽以外の情報がいろいろ含まれる。今はそんな事ないかも知れないけど当時'80年代半ば頃はそうだった。

現在の自分はこんな風には考えないけど、当時の自分はロックバンドもしくはロッカーは格好付ける前提で成立するものと理解していた(ファッションや見た目の事ではありません)。無論、気さくでオープンな人は沢山いるし、格好付けるなんてダサいぜって云う人も多いし、わざわざ露悪的になってみっともない自分を曝け出す人も多い。そもそも「格好良い」なんて「当たり前」の価値観は格好悪いって人の方がロック好きには多い気がするけど、でもそう云うの全部含めて、やっぱり格好付けるって事だと思った。違う云い方をすればいろんな意味で「賢い」必要があるって事。バカっぽい振る舞いはOKだけどバカじゃダメって感じ。そうじゃないと格好付けてもサマにならない。対して自分はロッカー?になるにはあまりにも凡庸で小心で猜疑心や反抗心に欠けていた。そしてうっかりミスの多い自分はいくら格好付けてみてもすぐに台無しな失敗を繰り返すと容易に想像出来たので、自分にはちょっと無理かな〜と思いながらも、当時は知人に誘われてロックバンド然としたバンドに参加したりした。

よい思い出も嫌な事もあったけど結局長続きせずそのバンドはやめた。それに比べて自分で始めたバンドは「 なんでもいいから何か自分(達)に出来そうな音楽を探そう」と考えてsakanaと名乗って35年続いた(こちらもよい思い出と嫌な事はテンコ盛りだったけど)。結局出来そうな音楽は未だ見つかっていないけど、今もそれなりに楽しんで探索を続けている。

なんで今になってロックバンドについてこんな事書いてるかと云うと、近年のSNSによって昔の知り合い音楽家の多くが今も健在で元気に活動している情報を知り、そのロックバンドぶりを頼もしくも羨ましくも思うからだ。彼らは若い頃から自分とは違ってたような気がする。でも年取ってよかったのはその違いがどうでもよくなった事だね。 



 

 


2022年3月1日火曜日

前回に続き絵を描く事について。
35年以上も絵を描いているけど、何かを「掴んだ」と思える事は一つもない。でも絵を自分の思い通りにしようした途端に上手く運ばなくなるって事だけは分かった気がする。、、まあなんでもそうか。自分の思い通りにではなく、相手にとってどうするのがよいかを考えれば、わりとスムーズに進むよね。別の云い方をすれば、真っ新の紙に下描きの線を一本引けば、それは紙ではなく絵になって、自分の思い通りにはならない他者になる。別にいい人ぶるわけではなくて、その方が自分にとってよいって事。

超大物を引き合いに出して恐縮だけど、こう云う事をスーパー達人レベルで実践したのがピカソだと思う。ピカソの作品は「天才の力技」のように見えるかも知れないけどそうではなくて、つい思い通りにしようとする自分の強引さやワザとらしさを丁寧に払拭した成果だと自分には思える。でもそれを言葉通りに実現出来てしまうからやはり天才。コクトーは「優れた作品は創られる前から在る」と云ったけど、まさしくピカソの作品を現してると思うな。

今日から3月。ここ数日は春めいた暖かい日が続いてる。でもロシアのウクライナ侵攻は世界の何処かではいつの時代も戦争紛争が絶えない事を再び思い起こさせる。馬鹿げていると思うだろうけど、「勝ち負け」や「損得」が何の価値も持たない世界が1日も早く実現すればよいと思う。

一つ名言を引用。エルビス・プレスリーの言葉。
「人生をあまり深刻に考えてはいけません。だって生きたままそこから逃れられる人は絶対にいないのだから」誰もがこう思ったらたぶん戦争は起こらない。