たまには絵を描くことについて。
中学、高校の美術の時間に何か絵を描かされて先生が「最初からちゃんと描こうとしてはダメだ、大まかに描いて行き少しずつ整えながら細部を描いて行くように」と云われた覚えがある人はたぶん多いと思う(少なくとも自分と近い世代なら)。自分も何度も聞いた覚えがあるし、その教えは当たり前のように刷り込まれた。だから20歳過ぎて「絵を描いてみようかな」と思い立った時もその教えは念頭にあったし、わりと近年までそれは自分にとっての「当たり前」だった。でもあまりこの教えを鵜呑みにしない方がよいと今は思う。確かに最初からイメージした通りの描写、色味を実現しようと思っても上手くは行かない。鉛筆画やペン画ならば一部を綿密に描き込みながらその範囲を広げて行くような描き方も可能だしそうしている人をよく見るけれど、絵の具を使う場合は少しずつ塗り重ねて行くことでイメージしている描画に近づけて行くしかない(薄塗りのザックリ描画を完成形として描く場合もあるけれど)。
で、そうやって最初はラフに徐々に細部を、、と作業を進める場合でも最初から一筆毎に完成形のイメージを持って細心の注意を払うべきで、最初は安直に描いてよいわけではない。最初の一筆を置く作業の影響は結局完成形まで残るから。僕はたぶんこの事が身にしみるまでに35年くらいかかってしまった。もっと早く気付けばよかったのだけれど。
この最初は大雑把に、徐々に丁寧に仕上げて行く、と云うのは絵に限らず音楽やデザインその他なんでも行われる手順で、パソコンでのデザイン作業など手前の作業を完全に上書きしたり、後戻りしたり出来る手法の場合は有効だと思う。でも手で絵を描くと云うアナログ作業においては完全な上書きや後戻りは不可能。
話は変わって先日震災から10年経ってSNSはその話題がたくさんだった。もちろん自分も振り返るしあの日の光景や混乱は今も生々しく覚えている。それまで「疑っているつもりだった」けど心のどこかで根拠もなく信じていた事が、まるで実態のないハリボテみたいなものだったと見せつけられて、世の中も自分自身も動揺した。大雑把な云い方だけど「安全や安心が考慮されているシステムの中で生活を営んでいるはず」と云う盲信が危険なんだって事に自分を含め多分たくさんの人が気付いた(ホントはずっと以前からそれに気付くべき実例はたくさんあるんだけど)。そして人は絶望したままでは生きられないから何か(何処か)に希望を繋ごうとする。自分は何を拠り所にしているのだろう?今でもそれを考えると途方に暮れてしまう。でも自分は今まで続けてきた事を営み続けるしかないんだよね。それが自分のしたい事だから。
ネットでとある社会学者の人の著書宣伝の為の記事を読んだ。「この10年で3つの事を諦めた日本の盲点」と題した記事で理路整然と正論が並ぶ内容は成る程と思うと同時に、どの言葉も全然自分の心に届かない事が不思議でもあった。なぜだろう?よく分からない。幾つか以下に引用してみますが、検索すればすぐ見つかると思うので興味がある人は全部読んでみてください。って云うか宣伝してる本を買わないと核心は分からないけれど、。 でも「見て見ぬ振りをして過ごしていこうとする」構造にはまり込んでいる、そこに盲点があるということです」って云うのは、自分は違うと思うけどな。
いずれにせよ、極端で単純化された言説が「言説市場」の競争の中で勝ち残りやすい状況はますます加速しています。
「『変わるべきだ!変わるはずだ!』と唱えてさえいれば変わるに違いない」という幻想が、絶対的に「変わらない」強固さをもっているということ。これが、あの3.11直後の当時から明らかだったわけです。
事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する。
そして、「知識」も必要とされなくなっている。ここでいう「知識」とは、断片的な情報を体系的に組み合わせ、またその獲得に向けた意思と経験への意思が不可欠なものを指します。例えば、何かのプロ・職人が熟練の過程で身につけるもののようなものですね。そういった意味での「知識」を前提とした言説は成立し得なくなる。そうなれば、すでに政治的・経済的資源を得ている人々が持っているような"あらかじめ獲得された立場"が複雑な物事を決める主たる要因となっていくでしょう。
でも逆説的に「知識っぽい情報」は増えているという実感がある人もいるでしょう。とにかくわかりやすく解説することに心血を注ぐテレビや、YouTuberのテロップカルチャー的なものだったり、逆にひねくれたペダンチックなものの見方がバズったりして、なんか新しいこと言っている感をそこに求める層がいることとか。
一方には、「わかりやすさ・理解しやすさ」をひたすら拡大しようとする無限運動がある。他方に「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」というニッチで「高尚な知的趣味」が存在する構図がある。両者に共通するのは、「知識」が必要ない、ということです。
「わかりやすさ・理解しやすさ」というのは、ある情報の体系のパッケージ部分だけを手短に理解する、あるいは、理解したつもりになれることを志向する。それに比べて「わかりにくさ・理解しにくさを楽しもう」という態度は、一見知的なようでいて、「知識」の有無を放棄することに接続してしまっている。
「事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する」ような、言葉のゲームが反復されるようになります。そこには「何かやってやったぞ感」と徒労だけが残り、社会の変化は何も起きずに時間が経過していくことになる。
「あってはならぬものを見て見ぬ振りをして過ごしていこうとする」構造にはまり込んでいる、そこに盲点があるということです。目の前の問題を棚上げせず、直視して向き合えるのか。3.11から10年のその後が問われるのはこれからです。