2022年10月3日月曜日

秋近し

愚痴だと誤解されたら嫌なので先に書くけど、これは愚痴ではなくて単なる理解。

相手から何かを訊ねられて、回答がネガティブな場合返信がない事が自分はわりと多い。例えば「いつ何時ライブしませんか?」と誘われて「予定が入っているので出来ません」と返事した時、それっきりと云う感じ。 

必要な情報交換は済んでいるから何も問題ないし、別に腹を立てているわけでもないけど、「あ〜、そう云う相手なんだな」って自分の中で相手に対する位置づけみたいなのは決まると思う。自慢するわけでも他人にも同じようにして欲しいと望むわけでもないけど、自分が誰かに何かを頼んだ場合は相手が誰であっても、返事の可否に関わらず検討して返信してくれた事に対する礼は返す。それが自分にとって当たり前の事だからに過ぎない。

ここで思うのは「相手になめられるか否か」が行動原理になっている人が世の中には結構多いなと云う事。自分のような振る舞いは真っ先になめられるのだろうと若い頃から理解はしてるけど変えられない、なんでだろう?例えば店を経営してる人だったら、何でも客の云いなりにはならないぞと云う表明かも知れないし、。「なめられる事が」生活のかかった仕事に支障をきたすとなれば、そりゃ誰だってそうならないように考えるよね。

自分の場合は絵を描くのが一応生業で、描いた絵を観ればそれがどの程度のものかは一目瞭然なので取り繕いようがないから「なめられないように」って行動原理に行き着かないのかも知れない。あと相手によって態度を変えるってのが自分は単純に好きじゃない。

話は変わって、先日またひとつ歳を取った。いつの間にか、父親が亡くなった年齢と同じになってしまった。以前にも父親の事は書いた事があるので繰り返しになるけど、父親とは子供の頃からあまり折り合いがよくなかったので、高校卒業して家を出てからは疎遠なままだった。たいして腹を割った話をする事もなくあっけなく居なくなってしまった。そんな我儘で身勝手な子供を持って、今の自分と同じ年齢だった父親は何を思っていたのだろうか?この年齢になればあらゆる能力は下り坂で、自分がどの程度のスキルしか持っておらず、詰まらない事にくよくよする侘しい人間だと知っているし、だからささやかな人との繋がりや交流がとてもありがたく感じるものだと思う。父親は近所に買い物に出かけた際に道端で倒れて突然死だった。本人も自分がまさか死ぬなんで全く思っていなかったはず。それが救いだなと思う。「自分はもうすぐ死ぬのかも知れない」と思いながら独りで寂しく死んで行ったとしたらやりきれない。

話は変わって、徳島県の櫻茶屋でのイラスト展がおかげさまで無事終了しました。 足を運んでくださった皆さん、気に留めてくださった皆さん、お世話になった方々、どうもありがとうございました。